音を読む 本を聴く

イトウの音と本の綴織

【活動調整】ブログとFacebookとnoteの位置付け

Facebookを中心に書いたり、ライブ配信をしていますが、記事や考えていることはnoteをメインでやろうかと思っています。

ブログはFacebookやnoteのまとめや紹介という位置付けにして行きます。

ブログもソコソコにPVはあるのですが、もう少し双方向性を重視するにはSNSとクリエーターの人とのやりとりができた方がいいと思います。

 

これだけ様々なネット上のサービスやツールがあると、よりクオリティの高い内容を書いている人、前向きに社会に対峙している人にアクセスしたくなってきました。

 

私自身も社会性のある活動をしていっているので、あまり匿名性の強いサービスを使う気にはなれなくなっています。

というわけで、ブログは活動報告程度になると思います。

 

 

【読書】死ぬまで読了しない読書が一番好きだ。

2日前に書いた文書でやや書き足らなかった部分をもう少し書いてみる。

 

jsbgm1860.hatenablog.jp

 昨年1700冊読んで何を得たか、という記事。

 

今日書きたいのは、

  • なぜそんなにたくさんの本を読むのか?
  • 本の内容を理解しているのか?

である。

 

まず、

なぜそんなにたくさんの本を読むのか?

まず、私にとっては全然「たくさん」じゃない。全く少ない。少なすぎる。

古典文学に限っても、源氏物語を原文で全文読んでいない。トルストイプルーストやなども未読の山だ。

原文で読まなくとも現代語訳日本語訳で読むつもりはあるが、他の文学作品もまだまだ読みたりない。

哲学書、歴史書、宗教書、社会科学書、自然科学書も未読だらけ。

たとえば、モンテーニュのエセー、道元正法眼蔵アーレント全体主義の起原、サルトル存在と無、ギボンのローマ帝国衰亡史…

これら世界で読まれている本を私は未読なのである。

なぜ、そこまで読む必要があるのか?

それは私が当然読んでおくのが当然だと思っているからである(今の段階ではこう書くしかない)。

 

一例だが、私は合唱音楽を音楽活動としてやっている。

私のやっている合唱というものは、根本的基盤にあるのはキリスト教教会音楽であるから、当然聖書は読んでいて当然の感覚でいる。

教会の成り立ち、カトリックプロテスタントの意味それ以外の宗派や教派への理解、さらに基になったユダヤ教にも突っ込んでいく。現代社会と音楽を考えるなら、芸術と資本主義というトピックも立つ。

さらに突っ込むとキリスト教の理解という上っ面のものではなく、私の心にはキリスト教でいう「信仰」というのはあるのだろうか?日本人のいう「神」と”God”は違うのではないか?

音楽ひとつにおいても様々な理解を促してくれるものである。音楽についてもそれだけの問いが立つ。

もちろん読書しただけでは音楽をすることにはならないが、書物から得られる世界観や知識は必要だ。

例えは音楽だったが、音楽ですらこの大きな世界の中での一存在。

この世界は人類が形成してきた「智」で出来上がっているならば、1人で全て知ろうなんておこがましいってもんかもしれない。しかし、そうであっても私は知りたい。

 

まあ、そこまで鯱張らずに言っても

言葉は人や社会を動かす」だ。

 

私はトピックしか読んでいないが、池上彰氏で以下の著書がある。

 

世界を変えた10冊の本 (文春文庫)

世界を変えた10冊の本 (文春文庫)

 

 

アンネの日記

『聖書』

コーラン

プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神

資本論

イスラーム原理主義の「道しるべ 」』

沈黙の春

種の起源

『雇用 、利子および貨幣の一般理論』

『資本主義と自由』 

 

以上が池上氏の言う「世界を変えた」本である。

私はこの10冊の中で8冊を読んだが、確かにこれらはのちの人たちの心を変え、行動を変えた「言葉」が詰まった本だと言って良いと思う。

これらの本は難しいから読んでいないと言う人でも、今いる社会に様々な影響していることを否定できないと思う。

 

これらの本がなければ、

キリスト教がなければ良くも悪くも資本主義経済すら発生しなかったかもしれない。

ユダヤ人虐殺行為が明るみに出なかったかもしれない。

環境汚染に対するエコロジーの思想もないかもしれない。

人間は進化成長するという発想もない。

資本主義経済を無防備のまま受け入れているかもしれない。

世の中でお金をどう回していけば良いのかという考えすらないかもしれない。

 

今、当然であると思われている価値観の中にこれらの本の「智」が間違いなく動いている。

読書をすればするほど、これには実感せざるを得ない。

 

言葉には良くも悪くもパワーがある。言葉の使い方で自分自身へも他人へも何らかの影響をもたらすことは明らかである。

これらの人々を変えた言葉が詰まった本を私が読まない理由はない。

 

以上が、現状で目一杯、私が書ける「たくさんの本を読む」理由である。

 

次に

本の内容を理解しているのか?

これは何を以って理解とするのか、読了とするのか?と同義であるとする。

答えは

「理解できるところもあるし、全く理解できないところもある。全部読んでも全く理解できない本もある。」以上

 

「本の内容を理解しているのか?」と言う問いに対し、逆に私は問いを立てたい。

  • 内容を理解したというのはどの時点で言えばいいのか?
  • 100%理解したと言えるまでは読んだとは言えないのか?

 

私は本を読むということについて、こだわりは捨てて行ったほうが、晦渋・複雑な本でも自由に楽に読めますよ、と言っておきたい。

 

私は本の内容を誰かに伝えねばならないとも思わないし、読書記録を書くべきとも思わないし、100%理解せねばならないとも思わない。

とにかく、全てパーフェクトな世界はどこにもないというのが現実世界だという認識である。

私はたくさんの本を読んできたのだから「他の人より優れている」などと鼻くそほども思わない。

そんな上から目線の考えが芽生えたら、完全なる「老害」である。読書家などと口が裂けても言いたくない。

 

本を読むとき、

  • 最初から一字一句理解しながら読まねばならない。
  • 読んだら感想を書かねばならない
  • 読んだ内容をまとめ文章を書かねばならない

と、どこで言われのか?

 

学校じゃないか。

 

これらの学校で教えられた読書の方法3点には以下の暗黙の前提がある。

  • 最初から最後まで読まないと本の内容はわからない(初等教育では音読は一定の効果があるかもしれないが、いつまでも同じ読み方しかしないのは成長を阻む恐れがあることは完全に無視されている)
  • 読んだら絶対に理解できる(はずの)題材しか用意しない(理解できない本への向き合い方を無視している)
  • 読んだ内容を表現できなければダメ(点数にできなければ学校は評価しようがないので無理にでも書けという嫌がらせ)

 

これらの暗黙の前提は現実の世界では全てひっくり返る。

  • 一字一句読んでいたら一生かかっても限られた知識しか触れられない
  • 読んでも絶対に理解できない本(世界観、文化)がある
  • 読んだ内容をすぐ表現できなくても、心のどこかに残っていれば、いつかどこかで繋がることもある
  • 言葉には現せないものやことはたくさんある

これが現実でしょ。

 

本の学校教育では、必ず結果を出すという前提で行われている。

それは日本の学校教育内では動かしがたい現実かもしれない。(戦後教育の狙いをここで問うことはあえて避ける)

 

しかし、現実社会に出てみれば、全てが不確実で複雑、不条理に満ちて、暴力と権力が横溢しているのではないか。

さらにそこには正解はない。正義すら時代や国で異なる。様々な価値観や視野視座視点を持つと言う認識が必要。

 

学校で習った通りに勉強ができて高偏差値の大学へ行ったとしても、逆にその刷り込まれた価値観に思考が引っ張られてしまうことも多い。

私がいうまでもなく、それは日本の企業の現状を見ればわかることも多いと思う。

 

そんな社会を前に学校教育(ここでは読書という点においてのみにする)が何の力になるのであろうか。

ここは私が最も強く問いたいことである!

 

そこまで突き詰めなくても、

本を読むことさえ、学校教育からの刷り込みで自由にできないなんて、

 

もったいない!もったいない!もったいない!

 

読書なんてもっと自由でいいじゃん!

 

難しい本は読むのやめておこう…はもったいない!

読んでみないとわからない。

読んでみてもわからないかもしれない。でも読んで何かをつかもうとチャレンジしていけばいいじゃないか、と思う。

 

私も昨年にマルクスの「資本論」、一昨年にアダム・スミスの「国富論」を読んだ。

読んで意味あったの?わかったの?と問われれば、

私は意味はあったと思う。

でも、それは私にとって価値があった経験を得たというだけで他人が同じようになるという保証はない。当たり前だよね。

わかったのか?

もちろん、わからない部分は多かった。でもなるほど、と思うところは数多く出てきた。

 

とりあえず、それでいいと私は思う。だって何度も読みかえせばいいのだから。

どんなことでもそうだけれど、人は他人の立場に100%立つことはできない。当たり前だ。

それであっても、相手の気持ちや事情を慮ってお互いに助け合うのが社会でのコミュニケーションの望ましいあり方だと考える。

 

読書でも著者の視点に立って読む姿勢を持つことが大切だと思う。

わからないことがあって当然。それでも繰り返し読むことが私は時と場所を超えた著者とのコミュニケーションだと思う。

これが私の今の心境である。

 

 

かしこまって書くならば、

読書で自由を得ることは、社会で自由に生きることを得る「可能性」を掴むことでもあると思う。

 

もちろん、「絶対大丈夫」「信じていると必ず報われる」という世界は現実ではない。

そういう世界はファンタジーの世界はもちろんあって良いが、それは現実とは異なるものという理解する。(大の大人もこういうファンタジーの世界に生きている人が相当多いので若い人は注意していたほうがいい)

 

ともあれ、

正解もない、不確実なのが世の中の常なので、

「読書していれば大丈夫」

でもないし

「読書しない奴はダメだ」

でもない。

 

 

不確実で、正解がなければ、読書の仕方ですら自分が決めれば良いのだ。

 

とりあえず、読書に関して言えば上に書いた通り、学校で刷り込まれた方法では明らかに私は不自由だと思っているので、

本を読んでもどこまでもわからないことがある、という前提で、

死ぬまで読み終わらない読書が好きだ。

なんども読んでなんども考え行動することが好きだ。

 

 

ウィーナー サイバネティックス――動物と機械における制御と通信 (岩波文庫)

ウィーナー サイバネティックス――動物と機械における制御と通信 (岩波文庫)

 

 この私にとって、わからないことが世界を作り上げている事実。これは動かしがたい。

 

と書いてきて、何度も読み返す本に出会う機会が必要なのだとつくづく思う。

現状ではかなりテキトーに書いた本も多いので、まずは古典書を読み潰していくのが先決だと私は思っている。

 

と書いてとりあえず筆を置きたい。

 

【読書】年間1700冊以上読書して何を得たのか?

読書メーターで昨年読んだ本は以下。内容をリンクさせると膨大になるので、事実を挙げておく。

2017年の読書メーター
読んだ本の数:1708
読んだページ数:481548
ナイス数:24253 

 

bookmeter.com

 

私の読書のスタンスは、10代の頃から実はあまり変わっていない。

本を読むということは図鑑や学研マンガを読むことから始まり、年を経ることに幅広く深くなっている。正常進化だ。

 

で、結果1年間で何を得たのか?

 

本を読んでどんなに感動しても、

行動しなければ自己変革もないし、

社会をよりよく変えることなど絶対に出来ない

という身も蓋もない事実だったのである。

 

 

私が20代の頃、もっとも仕事と趣味に無茶苦茶し過ぎたことで、体と精神にダメージを得た。おかげで仕事を1年弱休職せざるをえなくなり、結果としては退職することになった。

この時に相当苛烈な体験をして、死すらも考える日もあったことを告白せねばなるまい。

でも現時点でこうして生きている。十分にサバイバーである。

 

さて、20代から30代の読書は成果即効性を求める読書であったことを正直に書いておく。自己啓発系の本やプログラムにハマってしまい、知らないうちにオカルト的な考えを持っていたのだ。

所謂「願えば叶う」「引き寄せの法則」のようなものである。

確かにこれらの言葉は決して非合理的ではない。しかし、本質を私は見誤っていたのである。

願っていても、自分が行動しなければ、現実は変わらない。

同じ考えの物やことに引き寄せられても、お金が寄ってくるわけではない。

今思えば当たり前すぎる事実なのだ(笑)。

 

新卒で就職した職場を10年で事実上、病気退職した時、全く生きる軸を見失っていた。

それを埋め合わせるように、所謂「感謝の言葉を1000回毎日唱えなさい」「ついてるを言い続けなさい」とか書いてある本を正直に実践した。

今考えると、あんなに必死になって毎日「ありがとう、ありがとう、ありがとう…」と言い続けていたのか、まさに「溺れる者は藁をも摑む」状態であった。

10年くらい前に流行ったカツマーやライフハック本もかなり一生懸命読んで実践した。やたら資格や収入に繋がる勉強をするという物だったが、そのノウハウにも違和感を感じていた。(この当時勝間さんはパナソニックレッツノートをスタバで使って仕事をするノマドスタイルを提唱していて、リアルに仕事帰りにスタバに寄るとまさにレッツノートを使っている方をよくお見かけしたが…。)

 

それらの自己啓発本オカルト本はとうの昔にブックオフに売却して今手元にはない。

最近、当時読んでいた本をブックオフなんかで読み返してみた。

「単なる流行本で、数年でクズと化す」という事実を確認してしまった。

 

つくづく、読書することは必要ではあるけれど、読書しているからといって全知全能になれるわけでもないのに、ついそう思ってしまう陥穽があるのも現実なのだ。

どれだけ本を読んでも人は世界を知り得ることはできない。読めば読むほど、多様で複雑な世界を生きている自分のちっぽけさを知るだけである(でもそのちっぽけさが人間の価値なのだとも思う)

なのに、私は数年で陳腐化するような本を、20代から30代にかけて必死で毎日読み続けていたわけだ。

こんなんで社会的構造や現実を知り、それを応用実践できるはずがない。

 

今月も今の時点で200冊近く読んでいるが、新刊本は極力読んでいない。

申し訳ないが新作小説を読むことも意識的に外している。

自己啓発本もほとんど読まない。というか、それ系の本は基本的に過去の古典本の焼き直しなので、立ち読みで終わってしまう。

有限な自分の時間を陳腐なストーリーで満たしていたら命がいくつあってもたりない。(と言いつつ、たまにラノベを読んで、やっちまった!と思うこともあるが)

 

現在は基本的に古典書を極力読んでいる。古典でもまだまだ全然読みたりない。おそらく古典を読み、考え、実践するだけで、私の生涯は終わるのではないかと思う。

少なくとも読書に関しては、古典9割で残り1割は目利きで良書をピンポイントで狙って、豊かな人生を送ることに注力しようと思う。

 

そして、その豊かさとは何か?

それは自分自身の本音に向き合うほかない。

それは正解はない。

世界は複雑だから。

単純な世界に生きようと思ったらファンタジーに行け。

でもファンタジーだけで生き続けることは楽しいのだろうか???

 

【諸々報告】MacBook Pro2016整備済品届く。今年から始めたことなど。

今期の冬はカラダに堪えます。今週は雪も降り、体調を崩しています。というよりカラダが動かない。

私のカラダは動きづらいのですが、世の中と我が家の状況は激変しています。

それについて書きます。

  • 私の漢方治療が徐々に功を奏している
  • 娘が昨年内に大学合格
  • 私の読書量が月100冊超え
  • スマートフォンを家族でiPhoneに乗り換え、iPad Proも導入
  • GoogleHome、Chromecastaudio導入
  • 今年より合唱団に復帰
  • 本日、MacBook Pro2016を導入
 
私の漢方治療

昨年7月より、従姉妹の紹介により始めた漢方薬治療が随分効果があり、辛いながらも体調に前進が出てきた。

東洋医学の考え方は西洋医学とはかなり異なることを漢方薬剤師の方から毎回説明を受けて、非常に衝撃を受けた。東洋医学ももちろん万能ではないが、もっと日本の世の中に再認識されてしかるべきだと思う。

 

オールカラー版 基本としくみがよくわかる東洋医学の 教科書

オールカラー版 基本としくみがよくわかる東洋医学の 教科書

 

 

娘が昨年末に大学合格

本来はセンター試験を受験して二次試験を受験する形で準備していたところ、志望大学の学部がセンター試験を課さない推薦入試を行なっていることがわかり、高校側も推薦条件を満たしていたため、昨年11月に推薦入試という形で国立大学を受験、合格に至った。

リアルに受験生の子供を持つと色々な経験ができた。一番思うのは、どの大学も「優秀な学生を確保するのに必死」。ほぼ毎日どこかの大学からオープンキャンパスの案内、時期が迫ってくると、願書自体を送りつけてくる大学まであった。それも、どこの大学か知らないところからも送られてくるのだ。

それだけではない。

奨学金制度を猛アピールする大学。本試験対策の講座を無料で開く大学(しかも動画配信サービスまである!)。センター試験後にも「まだ間に合いますから、ウェブで願書受付!」という公立大学

もっとも衝撃的だったのは防衛大学校。高校まで受験を促すリクルーターまで派遣してくる。受験料無料だから力試しに!という謳い文句で受験を促し申し込みをさせる。

受験票が届いたら「自衛隊」と書いてある!

確かに防衛省管轄だから当然でしょう、と言われれまそれまでだが、我が子が自衛隊の入隊試験を受けているという事実に正直、考え込まざるを得なかった。

私が大学受験をしたのはもう25年以上前。今や大学受験は巨大産業と化していた。

 

私の読書量が月100冊超え

これは昨年途中まで備に報告していたので明らかなことだが、読書時間を早朝2時間、夜1時間、計3時間を作り、一日3、4冊、月間100冊の読書を行なっている。なぜこれだけの量を読みたいか?だがこのくらい読んでいて当然の目標を設定したからである。

冊数読めばいいというものではなく、時間を1日3時間以上、休日は5時間は読書時間に費やすようにしてみた。

これはテレビを見ずその時間を読書時間に充てれば不可能ではない。あとはそれだけ読みたいかどうか。私は読みたいのでやってみたら、意外と簡単にできた。今は新本も読むが、再読本もよみつつ、今年は月間300冊を目安に読んでいる。

 

jsbgm1860.hatenablog.jp

 

スマートフォンを家族でiPhoneに乗り換え、iPad Proも導入

娘の受験が終わったところでちょうど家族のAndroidスマホの調子もよくないこともあり、家族でiPhoneにした。娘と私はiPhone8、妻はiPhone7。私はiPhoneXにもかなり惹かれたが、あまりに高価すぎたので8にする。ちなみに8Plusはあいにく品切れだった。

iPad Proは一昨年から娘が高校の授業で学術論文の検索に相当に使っていたため、私も使い出した。電子書籍や雑誌などは非常に重宝している。iBookstoreは家族で電子書籍をシェアできるため、家族でApple製品を使うと相当なメリットがある。これはAmazonKindleには今のところないのでAppleユーザーはチェックしてもいいと思う。

あと雑誌はdマガジンを購読している。これもアカウントを一つ取れば400円+税で家族で読むことができる。基本的に雑誌はこれでOK。

GoogleHomemini、Chromecast、Chromecastaudio導入

我が家のサイバー化は留まることを知らない。

昨年末GoogleHomeminiが定価の半額3000円+税でビックカメラで売られていたので、Chromecast、Chromecastaudioとともに購入した。

GoogleHomeはChromecast、Chromecastaudioに連動し、YouTube動画やPlayMusic、Spotifyを再生してくれる。Chromecastaudioは今まで使用していたオーディオ装置にライン接続するだけなので簡単。またChromecastはHDMI入力でディスプレイにYouTubeやdアニメを映している。これも既存のオーディオ装置に接続して音質もかなり満足できるものだ。

 

Google ga00216-usホームMiniチャコール

Google ga00216-usホームMiniチャコール

 

 

store.google.com

store.google.com

今年より合唱団に復帰

もう10年近くブランクが空いてしまっていた、合唱活動を再開した。歌えるかどうか、体力はあるのか、様々な課題はあるが、残りたった50年(!)の人生をどう生きるかと自分に問いかけたらそのヒントはここにもあった。

音取りはこれを使っています。

 

タッチノーテーション

タッチノーテーション

  • Kawai Musical Instruments Manufacturing Co., Ltd.
  • ミュージック
  • ¥1,400

 

本日MacBook Pro2016モデル導入

一昨年にWindows10を導入したものの、スペックが低く、このブログすら更新がままならないようになってしまっていた。

家族でApple製品で固めてしまったので、Windowsパソコンは極めて使いづらい状況になってしまった。もちろんGoogleクラウドサービスを使えばMicrosoftApple間もなんとか使える。しかし、Apple製品同士の連携のあっけないほどの簡便さには敵わないのだ。ここは他のブログのみなさんの方が詳しいので割愛する。

MacBook Pro2016モデルは調べてみると、かなりの動作不良が出てきてAppleも一時修理対応ストップする騒ぎになったこともあったいわくつきの年式のようである。

そうした不安はあるものの、整備済品としてAppleが販売している以上、おそらく同じ不具合はないと思われる。まあIBM時代のWindows98搭載のThinkPad(当時25万円ほど)のHDD完全破損体験に比べれば、どうにでもなる気がするし。。。

それはともかく、MacBook Proの動作はさすがにサクサクしている。1年半前のモデルとはいえ、現在のMacBookのスペックよりは高いし、やはりProはProだ。おまけに比較的安いので非常に助かる整備済品。

www.apple.com

 

以上長い報告でした。

今年もますますチャレンジの年にしていきます!

 

福島のいま。2018/01/11の福島がライブ配信されました。ジャーナリスト烏賀陽弘道さんと一月万冊清水有高さん


福島ライブ烏賀陽さんと一月万冊清水有高

2018/01/11 にライブ配信

2011年3月11日東日本大震災からもうすぐ7年が経とうとしています。

しかし、福島の現状を定点観測しつづけている人はほとんどいないのです。

その中で定期的に福島を訪れ、記事を書き続けている貴重なフリージャーナリスト烏賀陽弘道さん。

先日、YouTube動画チャンネル一月万冊清水有高さんのチャンネルで生動画配信されました。定点観測している烏賀陽さんの詳細な解説付きです。(烏賀陽さんが車を運転して風景の変貌までお話しされています)

投稿サイトnoteで詳細な記事が買えます。1記事500円ほどですが、それぞれにたくさんの写真があり、現状でも全く復興すらない、むしろ悪化しているとも見えるものもたくさんあります。買って読むことは躊躇するかもしれませんが、一つの記事でもいいので買って読んでみてください。

上記ライブ動画を合わせて見ると、これを看過すべきものではないと思います。

note.mu

 

note.mu

note.mu

note.mu

 

 

原発事故 未完の収支報告書 フクシマ2046

原発事故 未完の収支報告書 フクシマ2046

 

 

 

フェイクニュースの見分け方 (新潮新書)

フェイクニュースの見分け方 (新潮新書)

 
「Jポップ」は死んだ (扶桑社BOOKS新書)

「Jポップ」は死んだ (扶桑社BOOKS新書)

 
Jポップとは何か―巨大化する音楽産業 (岩波新書)

Jポップとは何か―巨大化する音楽産業 (岩波新書)

 

 烏賀陽さんは音楽にも造詣が深く、音楽から見た日本の社会構造を指摘した本も書いています。

 

ここから私の話は音楽と震災にリンクします。

震災の時、あちこちでチャリティ・復興支援コンサートが行われました。

しかし、今はどうなのでしょうか?感傷的な思い出になっていないでしょうか?

決して感傷的な過去ではなく、今も震災、原発事故の影響があるのです。むしろ日本社会から離された「物語」になってはいないでしょうか。

烏賀陽さんが今も取材し続ける内容が今の日本の姿を示しているのではないでしょうか。

これは音楽をする者、聴く者でさえも、すべてが「知る」ことが必要ではないでしょうか。

時に音楽がファンタジーとしてあってもいいのですが、ファンタジーを超えた今の現実を知り、音楽に何ができるのか?

現実の福島を見ると今でも復興とは程遠い現実に対して私たちはいったいなにができるのか?

 

読書と音楽と社会、これらをリンクさせて考えていくと、私にはこれからやることが見えてきました。

ありがとうございます。烏賀陽弘道さん、清水有高さん。