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イトウの音と本の綴織

【日記】2020年1月22日

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カークビー、ヘンデル

GEORGE FRIDERIC HANDEL (1685–1759)

Italian Cantatas

Cantates italiennes · Italienische Kantaten

Tu fedel? tu costante?, HWV 171

Mi palpita il cor, HWV 132b

Alpestre monti, HWV 81

Tra le fiamme (Il consiglio), HWV 170

EMMA KIRKBY soprano

The Academy of Ancient Music

CHRISTOPHER HOGWOOD direction & harpsichord

肩と首の凝り固まりはあるが、なんとか起床した。

エマ・カークビーヘンデル、イタリア語カンタータ集。

バロック音楽の華として。

自分が死んだときのことを思ってみる。

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エマ ヘンデル、ランぺ、アーンアリア集

HANDEL • ARNE Arias EMMA KIRKB Y The Academy of Ancient Music CHRISTOPHER HOGWOOD

L'OISEAU - LYRE

 私が死んだときを仮定する。

「じゅんさん、亡くなったの?」

「そうだって、最近話ししてなかったな~」

「先日も彼のFacebook見てさ、何か大変そうだと思ったけど。こんなに早く亡くなるとはね。」

「本当に。こんなに早く亡くなるのだったら、一度会いに行けばよかった。」

「ええ、私はこの前Facebookでいいね!をつけようとしてやめっちゃった。なんか気を悪くするかと思って…。でも一度声かけるべきだったかなぁ」

「そうだね。もう亡くなってしまって、残念だな。通夜にいって線香の一本でもあげようかな」

「惜しい人を亡くした。残念だ」

「やっと死んだか。清々するね」

こんな話があるかもしれない。

しかし、その時にはもう私はいない。何を言われても何も響かない。

 もし彼らの言葉を草葉の陰から聞いていたら私はこう言うだろう。

「そうだって、最近話ししなかったな~」

私(何言ってんだ、こちらがどれだけ言っても無視していたくせに)

「先日も彼のFacebook見てさ、何か大変そうだと思ったけど。こんなに早く亡くなるとはね。」

私(大変そうに見えるならば、どうして何もしてくれなかったのか?)

「本当に。こんなに早く亡くなるのだったら、一度会いに行けばよかった。」

私(だったら早く来いよ!誰でもいつ死ぬかわからないのだ!)

「ええ、私はこの前Facebookでいいね!をつけようとしてやめちゃった。なんか気を悪くするかと思って…。でも一度声かけるべきだったかなぁ」

私(気を悪くするかもしれないけど、いいね!くらいつけるべきだったな)

「そうだね。もう亡くなってしまって、残念だな。通夜にいって線香の一本でもあげようかな」

私(そんな心のない線香はいらねえ)

「惜しい人を亡くした。残念だ」

私(本当に心にもない適当なことを言うんだね)

「やっと死んだか。清々するね」

私(おまえ、そんなことを思っていたのか…)

 私は生きている時がすべて

私は今のところ前世も後世も信じない。死んでも星にもならないと思う。現世のことは現世で終わると思う。 私のような人生観はひょっとすると、信仰に厚い人は不快に感じるかもしれない。 だが、これは私の信条なので、あなたの信仰を否定するものではない。

私にとって生きている時がすべてであり、死んだあとにどれだけ惜しまれても貶されても私には届かない。感謝しようにもしようがない。復讐しようにもしようがない。死んだらもう会えないのだ。良いことも悪いことも生きている間に決着をつけたいと私は思っている。

私に対してどう思おうが皆さんの勝手だが、私はそういうつもりで生きている。死んだあとで私のことをどう言おうが、それは私にとって何の意味もなさない。もう話すこともできないのだ。

だからこそ、私は生きている目の前の人を尊重したい。自分勝手に決めつけたその人ではなく、ありのままのその人を。

 今日、出会っている人ものがすべて

昨日では阪神淡路大震災から25年経った。

私はいつも思う。

震災であろうが事故であろうが、どんな人でも突然この世からいなくなってしまうことがある。

これは確率の問題ではない。死は100%直面する出来事であり、生物はかならず死ぬ。

一方で多くの人は死を考えない。喪失はだれでも怖いものだからと私は思う。

死というものは非常に難しいものであるとともに、非常にシンプルな出来事でもある。

私はある人の死に直面したとき「人が死ぬって、こんなにあっけないものなのか」と感じた。

人間って人生をやたらに盛り立てるけれど、最終はこんなに単純なのかと。

ただ動かなくなる。だんだん顔の皮が重力に逆らえず、横たわる顔のしわが伸びてなくなる。火葬するまで腐らないようにドライアイスを棺に詰める。

すべてが日常的に生物のあたりまえを見ているにすぎない。

人にはいろいろな思いがある。だからこそ喜怒哀楽がある。私はそういう人生を愛する。正直あまりに苦しく悲しいことが多くて、本当に嫌になることがある。

でも、そうした体験をしつつも、諦められないことややりたいことがある。あくまでも人生を楽しみたい。自分の気持ちを大切に思い、他人を尊重できる人間になりたい。突き詰めればそれだけが私の望むことだ。

私の最も愛するものは音楽であり芸術である。

それらは紛れもなく、人間の創り出すものであり生と死の中で生み出されるものである。だからこそ芸術は尊い

私はこれからもそれらを愛し、その中で人と出会っていきたい。

【日記】【音楽】2020年1月16日 朝の音楽

2020年1月16日 朝の音楽

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orpheus
THE 30TH ANNIVERSARY ALBUM ORPHEUS CHAMBER ORCHESTRA

Deutsche Grammophon

オルフェウス室内管弦楽団の30周年アルバム。

この指揮者を置かないオーケストラの演奏録音をいつも好ましく思う。

超優秀録音ではないけれど、嫌みのない演奏をうまく掴んだものが多い。

このアルバムのボーナーストラックにベートーヴェンの第1交響曲のフィナーレが収められている。このライヴ録音が驚くほどの熱い名演だ。

調べたがこの第1番の全曲録音が見当たらない。彼らのベートーヴェンの録音はないかと調べたら5番と7番があったのでサブスクリプション聴いてみた。

演奏そのものより録音がダンゴでステレオとは思えない。レーベルがAvex

おはようございます。今日は多少は頑張れるか。

【日記】【病気】がんばりの向こうがわ

THE LADY MUSICK  EMMA KIRKBY: ANTHONY ROOLEY

いまの頑張りがこれからの症状改善に進むので、頑張りましょう

これは漢方薬剤師さんより言われた言葉である。

この薬剤師さんから、未だかつて頑張れ、と言われたことがなかったのでこれには特別な意味があると思っている。

今日はそれについて書く。

 病気を発症してから20年

医者、薬剤師など身体を診る人は患者に余力があるかどうかということをちゃんとわかる人だ思う。

2年余り漢方治療をしてきた。

この薬剤師さんが施した治療は納得することばかりである。

病気を発症してもう20年近く経つ。

医師からは改善の見込みがない、打つ手なし、とりあえず悪化しないための投薬しかないと言われていた。

しかし私はこのままでは自分の命が保たないと危機感を抱いていた。

そこに私の病状を見かねた従姉妹が紹介してくれたのがいまの漢方治療だった。 最初は漢方なんて大して効かないだろう、そうたかを括っていた。

しかしながら、実際処方されてみると、とんでもない。この漢方治療は想像していた以上の厳しいものだった。

 痛みと発熱は24時間

漢方治療を始めてものの2週間ほどで変化が現れた。

頭痛関節痛など身体中の痛みや発熱、口内の腫れ眼球の膨張、粘膜からの出血、これらが24時間絶え間なく襲いだした。そして伴う激しい体重減。

時には噴出する苛立ちや怒りがコントロールできるギリギリに達することもあった。

しかし何故かその痛みになんとか自分は対応できてきた。なぜだろう。

それを薬剤師さんに尋ねてみた。

身体に余力があるときに積極的に処方を進めているのですよ。余裕がなければ痛みを出す処方は取りません。痛みも耐えられないほどならば、そこで無理はさせません。

漢方処方は身体の様子、気温湿度、暦、その時の環境の流れなど毎回その時の状況に応じて全て処方を変えるという。

 漢方は非科学的オカルトというより「生活の知恵」

漢方は東洋医学の考え方に基づく。そこから考えれば、人間は常に動き続ける生命なのでいつも同じやり方は無意味だという考え方であるという。

病気は「気」の滞りから起きるという。

私はそれは非科学的なオカルトではないか、と当初思っていた。 見えないからである。

しかし今は納得できる。信じるというレベルではなく、納得である。

経験から考えてみれば、漢方は病気に対処する生活の知恵なのだと思う。

自分が生きているのはおそらくこの気というものが身体を流れているからであり、これが滞れば苦しくなり病になる。   これが東洋医学的な考えのようである。

気という言葉では難しければ、呼吸とか血液の流れと思ってもいいかもしれない。 いずれも滞れば死に至る大切な流れである。

以前の私はいわゆる、「気を流す」ことができていなかった。

感情を抑え、緊張していたのだ。身体が固まっていたのだ。

今は漢方治療を通してその身体の流れを実感できるようになった。また気の流れていない時がどんな感じなのか、実感できている。難しいことではなく生活感覚みたいなものだと思う。

しかし、今まで滞っていたものは身体の中にしっかりとあり、それが熱や痛み、嫌な記憶として噴出してきていると薬剤師さんは説明する。

私が毎日感じていることを日々書き続けているが、これもエネルギーが噴出している現れだと思う。欲求もまた気の流れである。

また、過去の嫌な記憶もまた心に燻った滞りなのであるとも言う。

もちろん今の私の状況もかなり苦しい。痛みはあいかわず出ている。

 漢方を通じて自分を知る

漢方治療に取り組む前の自分を思い出すとき、ハッキリ言えることがある。

あの時までの自分は押さえ込まれ、粘土で固められた自分だったと。

当時苦しかったのは、すべてを押さえ込まれて何の欲求すら出てこない状態だったからだ。

今苦しいのは、その押さえ込まれた本来のエネルギーが噴出していて、それをこなすことが大変だからである。

その苦しみの意味が全く違う。

また薬剤師さんは説明する。

身体中の滞りは過去に溜まったものなので、それを無かったことにすることはできません。 それを外に出して、身体からなくすほかありません。その滞りの量がいとうさんはかなり多いだけです。 痛みはそういう時には出てきます。だからこの痛みは出て当然なのです。

私はさすがにこれはないだろう…と思った。   痛みが出るのは当然と言っても痛いものは痛い。何とかして痛みを軽くできないか、と。

薬剤師さんはその訴えには毎回応じてくれた。

耐えられない時は身体に余力がないからであり、その時は処方をマイルドにして身体に余力を作ってから、また積極的な処方ができる機会を待つ

そして、ここに来て

「頑張り時です」

今は頑張れと言うのは私が頑張れると判断できたからだと思う。それは今までの治療を通して私も納得ができていることだ。

もちろん、頑張りますよ。 それしかないですから。

流石に今週から身体が痛くて大変な状況です。 本当になぜこんな苦しむことになったよくわからんよ!

今後のいとうにご期待ください…。