【日記】2020年6月13日 朝
日記 2020年6月13日 朝
右腕が痛い。キーボードが打ちづらい。ペンでものが書きづらい。
6月梅雨の時期は非常につらい時期。気圧の低下による体調の悪化がつらい。
- アーティスト:クロノス・カルテット
- 発売日: 1997/11/22
- メディア: CD
クロノスカルテット「アーリーミュージック」を聴く。中世ヨーロッパの音楽のトランスクリプション。 デュファイの音楽もあるが、少し多彩さに欠ける(音楽の質的に仕方のないことではあるが)。 メディテーションにはいいだろう。
キーボードのストロークが短い浅いもの、打ち込み間違いの少ないものはMacbookだろうか。
HPのキーボードはストロークが深いので、自分には合わない。PCを変えよう。
CD,本を減らすこと。なくすことまでを目標にしない。あくまでも自分の必要なものかどうかを吟味する。
- アーティスト:デュトワ(シャルル),モントリオール交響楽団
- 発売日: 2009/05/20
- メディア: CD
シャルル・デュトワ指揮モントリオール交響楽団ラヴェル「マ・メールロワ」を聴く。
AmazonMusicだとデュトワ&モントリオールの録音がほぼコンプリートで聴くことができる。まったくもってありがたい。感動である。
もうCDを買うことはなくなるだろう。(と言いつつ、まだ買ってしまっているが…)
さて今日は漢方治療の日だ。
持っている貧しい生活よ、さようなら。
最近やっと気づいたこと
部屋に本が散らかっていたり、埃がたまってくるとだんだんイライラしてくる。
そのくせ片付けも整理も苦手で、本やら何やら買いこんでくる。
まったくタチが悪い。
2週間前まで、DIYで棚を作って整理してみようと考えていた。
しかし、突然思った。
こりゃ、むりじゃね?
無理だ。有限の空間に無限のものを入れることはできない。
そして当たり前なことに気づいた。
ものを減らすしかない
ものを減らせばなくなる。ものがなくなれば余裕ができてイライラしない。
ものを増やすから散らかりイライラするのであって、収納場所に困るのである。
ものがなければそんな問題はなくなる。
当たり前な結論だ。
しかし、ものは増える。本を買って読んでいれば増えるに決まっている。
というわけで本を読んでみた。
ぼくたちに、もうモノは必要ない。 - 断捨離からミニマリストへ
ええ~ミニマリストかよー。あの何にもない部屋でたたずむ意識高い系の若者たち。
しかし、どうなんだ。
ものが多すぎて困っているのがこの私だ。
ものを捨てることは手段だ。
ものを少なくする。無駄なものを減らし、本質だけを残す。これが自分のしたいことだ。
私は10数年後の退職金はない。本当にゼロ円。年金ですら定期便の予想からすると8万円もいかない。今でも貯金もありますって言えない。ゼロ円。本当に絶望的にない。
まあ、世間の常識から行くと生きるのは無理っすね。動けなくなったら首をくくれっていう感じ。
大学の同期なんて恐らく、現在は年収800万円から1千万円で、退職金も推定2千万円くらいだろう。おまけに年金もある。
こうして比較して考え続けると、私は圧倒的に負け犬である。この枠組み(常識)では幸せになれっこない。そして幸せのマウント獲り無間地獄に生きる羽目になる。アラブの石油王にでもならない限り無理だ。そして私は石油王になりたくない。
ならば、生き方を転換させねばならない。カネはなくては生きられないが、カネへの依存度を徹底的に低くすればいい。
ミニマリストとは
ミニマリストとはものを持たずにシンプルに生きる人だ。
そしてミニマムに生きることで豊かさを得ている人だ。
今まで私はカネがないのにものばかり持ち欲しがっていたと思う。
このままでは部屋も脳みそもパンパンになってしまい、何が大切で何が無駄なものかが次第にわからなくなってしまうだろう。この状況は確実に来る。
しかしそうは言っても本やCDなど捨てたくないものばかりである。もちろん何でもやみくもに捨てればいいというものでもない。
ミニマムに生きる
しかし、このままではおそらくものに埋もれて死んでしまうだろう。死後に整理するのを他人に任せてどうする。この本やCDの山を?いっそ自分で決めてしまえ。そして残りの人生を豊かに生きようではないか。
さて、決めてみて早速本棚を1つ空にしようとした。段ボール七つでやっと収まる。これで売却するもの、貸倉庫に送るものを選定せねばならない。メルカリで出品するもの、寄付することもしたいが、あまりに多すぎて大変だ。
おっとCDもある。いくらサブスクリプションがあると言っても、そこまで簡単に割り切れない。
やってみるとものを捨てるという行為は恐ろしく大変だ。
しかし、どうなんだオレ。もういいではないか。人と同じように生きることなど辞めて自分らしく生きればいいではないか。オレには知恵も感情も感動もある。おまけに家族もいる。その自分があれば何もなくても生きていけるだろう。
シンプルに生きることこそ私がすべきことだと思う。カネなどないのだからカネなど気にしない生活をせねばならない。
普通のカネのある人と歩調など合わせなくていい。だとすれば積極的に持たない生活を送るほうがいい。
もう世間の常識を気にすることはない。気にしたら不幸になるのならば、気にせず笑いながら生きていこう。
カネ?そんなものまだ持ってんの?という世界は恐らく来る。そして人間の共感を基に生きる未来を見るのだ。
常識よ、さようなら。持つ生活よ、さようなら。
【読書感想】 2020年2月20日
体調は予想よりも芳しくない。コロナウィルスの心配もあり、うかつに出歩けなくなってきた。なんせ感染が怖い。マジで死ぬで。
今日は少しずつ読んできた本の感想 2冊を。
- 作者:若桑 みどり
- 発売日: 2005/04/01
- メディア: 文庫
美術、特に絵画を読み解くことに興味があった。
絵画を読み解く、それは絵の理解を深めることだけではなく、当時の社会背景や歴史を知ることにもなる。
単に美しさや楽しみという観方だけではなく、その絵の思想背景や画家の生き方を反映するものと知る。 そのことで、表面だけではない、芸術鑑賞の面白さが深くわかってくる。
私は音楽が好きなので、同じようなアプローチを音楽でもやってみたくなった。特にルネサンス期のポリフォニー音楽はすぐに応用できると思った。
「学びを結果に変える アウトプット大全」樺沢紫苑 サンクチュアリ出版
インプットはするものの、それをどう応用するか?を考えていた。最近メモ書きしアウトプットていたが、むやみやたらすぎるので、もう少し合理的にできないものかと思い、読んだ。
本書はとても具体的で明快だ。行動に結びつく80のトピックがあり、自分ができそうな項目が14個あった。まずこれからやろうと思う。
例えば「決断する 5秒で決める ワクワクするもの、最初に思いついた方からやる」「続ける 今日やることだけを考えて、先のことは考えない」「やってみる トライをする。人生に失敗はなくエラーしかない。エラーをたくさんやって徐々に成功に近づく」など気づきが多かった。
【日記】2020年2月18日 友達を大切にするとはクズとつきあう時間をなくすことだ。
友達を大切にするということ
療養生活10日ほど。頭痛と体の痛みがつらくて、仕事を休んでいる。今月の給料は少ない…
昨年もそうだったが、この気温の乱高下に身体が全くついていけない。さきほど信頼のおける漢方薬剤師より処方してもらった薬を飲んだところだ。これで体調が良くなるように…。
人生において大切だと思うことは、気持ちを整えて落ち着くことだ。
まずは住環境。そして人間関係だ。
人間関係は広くないほうがいい。少人数でコミュニケーションを深める関係のほうがよい。
くだらない人と付き合わない。少数でいいので友人を大切にして家族を大切にして会話を楽しみ、その中で楽しみを得ていく。
リアルな生活では正直腹が立つことばかりである。差別や偏見に満ちたクズが多い。しかも身近な人間がそうであることに気づくと実にやるせない思いになる。
まあ、彼らの考え方を変えることなんて私にはできない。もちろん「差別をするな!偏見を持つな!」とこちらの主張を言うことは必要なことかもしれない。しかし変わるのは彼らが自ら気づかなければ変われないだろう。クズは人の話を聴けないし、クズな行動は無意識にしているのでたちが悪い。
そもそも、私が他人をコントロールしようと思うこと自体が傲慢だから、彼らをどうこうしようと思うことはない。
差別や偏見を持っている人間は未熟であるし、そのことを指摘しても気づかないのであれば、こちらは彼らの前から去るのみである。私はいい人ではない。残酷である。クズは見捨てるのである。
でも、彼らが救いを求めてきたらちゃんと受けとめてあげようという思いもある。オープンマインドである。
もちろん、彼らの姿勢が閉鎖的でこちらの時間や知的財産を奪おうとしてきたら、速攻にブロックする。それからはいっさい付き合わない。
一番大切にしなければならないのは自分自身の生活である。自分の精神衛生である。私はそういう私自身のあり方を尊重せず、嘲ったりバカにしてくるクズとは付き合わないだけだ。
なぜこういうことを書いているかというと、過去に付き合ってきた人間のほとんどがこういったクズ人間ばかりだったことに気づいたからだ。
この気づきは私にとってはコロンブスの卵みたいなもの。今からするとなぜ気づかなかったのか不思議でならないほどだ。
クズは人の考えを無心する。利用する。私が得た知的財産を奪おうとする。奪った後は礼も言わなければ、無視をしたりする。これが教師であったり、知人で会ったり、何らかの指導的な人であってもクズ的な行動をしてくる。驚くべきことにクズはびっくりするくらい身近にいる。
このようなクズはきわめて相手を尊重していない。以前はそれを私も普通のこととして甘受し続けていた。しかし親子関係や人間関係を振り返る(これは非常に苦しい行為だった)ことを通じて、付き合うべき人と付き合ってはいけない人をはっきりさせるべきだという結論に至った。
世評が良くても必ずしも付き合うべきでない人はたくさんいることも分かった。
友達100人できるかな?というクズ発想
学校で「友達100人できるかな?」という歌を歌わせること自体が暴力的だ。クズ発想である。
こう書きだすと学校批判になりそうだが、今の生きづらさの根源は親子関係と学校関係にあると私は見ている。
だから、人間関係の悩みを抱えているとすれば、家庭か学校の時の偏った見方が影響していることが多いと思う。少なくとも私はそうである。
100人の見ず知らずの人間がすべて良心的な人間なわけがない。仲良くするどころかそいつから逃げなくてはならないかもしれないのに。
子供への教育として、人と仲良くすることが目指すところではない。むしろ仲良くなれなくても互いに共存できるようになることを目指すべきなのだ。
すくなくとも私自身の周囲は「仲良くせねばならない」という考えに縛られている。攻撃的な人間とも共存するには、強制的に友達になることではなくて、同じ空間にいてもスルーできる関係を作るほうがベターであることもある。
むりに仲良くさせよう、仲良いのが当たり前で仲良くできないのがおかしい、とするから、いじめなどの暴力に発展する。
暴力する人がいたら普通は避けるか逃げるはずだ。それをさせずに「友達になりましょう!」ってそれはお花畑にすぎる。おかげでいじめで自殺している子供が少なからずいる。「友達100人」の発想がどれだけ暴力的な発想かがこのことからもわかるだろう。
つきあう友達は少なくていい
学校批判はこれくらいにして。
いまだにビジネスの場でも人脈があるとか、顔が広い人が幅を利かせている。しかしその広い人脈や人間関係が必ずしもその人の素晴らしさではない。広ければ広いほど対個々人への対応が疎かになる。
例えば100人と毎日付き合う人と、3人と付き合う人では一人にかける時間とエネルギーが違うことはわかるだろう。間違いなく100人と付き合うほうが一人あたりの時間は少なくなる。
だから人脈は沢山あればよいわけではないし、その人の能力とは無関係である。
私自身、そんなに顔も広くないし、たいした人脈などない。しかしそうであっても自分はダメ人間か?というとそんなことはない。
私も仕事や趣味で出会った人でもそこから離れてからも付き合っている人はほとんどいない。千人の中でも数人いればいいくらいだ。仕事関係だと辞めた会社に至っては皆無。
私はそんなものだが、特に日常生活に困ることもない。家族と友人数人。十分充実した生活を送っている。リアルに会うほかに、LINE電話やYouTube配信で意見を交換する。それだけでもかなり質の高い人間関係を構築していると思う。
クズな人間と付き合わなくなった分、大切な人に心と時間を使うことができているおかげだと思う。
それからたとえ今友達と呼べる人がいなくても落ち込まなくていい。自分がオープンマインドであればいいし、オープンな自分を認めてくれないのならばそれは友達になりえない。まずは自分ありきでいいのだ。
※文章を書きあげたぐらいから漢方薬の効き目が現れた。実に即効性がある 。