【読書】死ぬまで読了しない読書が一番好きだ。
2日前に書いた文書でやや書き足らなかった部分をもう少し書いてみる。
昨年1700冊読んで何を得たか、という記事。
今日書きたいのは、
- なぜそんなにたくさんの本を読むのか?
- 本の内容を理解しているのか?
である。
まず、
なぜそんなにたくさんの本を読むのか?
まず、私にとっては全然「たくさん」じゃない。全く少ない。少なすぎる。
古典文学に限っても、源氏物語を原文で全文読んでいない。トルストイ、プルーストやなども未読の山だ。
原文で読まなくとも現代語訳日本語訳で読むつもりはあるが、他の文学作品もまだまだ読みたりない。
哲学書、歴史書、宗教書、社会科学書、自然科学書も未読だらけ。
たとえば、モンテーニュのエセー、道元の正法眼蔵、アーレントの全体主義の起原、サルトルの存在と無、ギボンのローマ帝国衰亡史…
これら世界で読まれている本を私は未読なのである。
なぜ、そこまで読む必要があるのか?
それは私が当然読んでおくのが当然だと思っているからである(今の段階ではこう書くしかない)。
一例だが、私は合唱音楽を音楽活動としてやっている。
私のやっている合唱というものは、根本的基盤にあるのはキリスト教教会音楽であるから、当然聖書は読んでいて当然の感覚でいる。
教会の成り立ち、カトリック・プロテスタントの意味それ以外の宗派や教派への理解、さらに基になったユダヤ教にも突っ込んでいく。現代社会と音楽を考えるなら、芸術と資本主義というトピックも立つ。
さらに突っ込むとキリスト教の理解という上っ面のものではなく、私の心にはキリスト教でいう「信仰」というのはあるのだろうか?日本人のいう「神」と”God”は違うのではないか?
音楽ひとつにおいても様々な理解を促してくれるものである。音楽についてもそれだけの問いが立つ。
もちろん読書しただけでは音楽をすることにはならないが、書物から得られる世界観や知識は必要だ。
例えは音楽だったが、音楽ですらこの大きな世界の中での一存在。
この世界は人類が形成してきた「智」で出来上がっているならば、1人で全て知ろうなんておこがましいってもんかもしれない。しかし、そうであっても私は知りたい。
まあ、そこまで鯱張らずに言っても
「言葉は人や社会を動かす」だ。
私はトピックしか読んでいないが、池上彰氏で以下の著書がある。
『アンネの日記』
『聖書』
『コーラン』
『資本論』
『沈黙の春』
『種の起源』
『雇用 、利子および貨幣の一般理論』
『資本主義と自由』
以上が池上氏の言う「世界を変えた」本である。
私はこの10冊の中で8冊を読んだが、確かにこれらはのちの人たちの心を変え、行動を変えた「言葉」が詰まった本だと言って良いと思う。
これらの本は難しいから読んでいないと言う人でも、今いる社会に様々な影響していることを否定できないと思う。
これらの本がなければ、
キリスト教がなければ良くも悪くも資本主義経済すら発生しなかったかもしれない。
ユダヤ人虐殺行為が明るみに出なかったかもしれない。
環境汚染に対するエコロジーの思想もないかもしれない。
人間は進化成長するという発想もない。
世の中でお金をどう回していけば良いのかという考えすらないかもしれない。
今、当然であると思われている価値観の中にこれらの本の「智」が間違いなく動いている。
読書をすればするほど、これには実感せざるを得ない。
言葉には良くも悪くもパワーがある。言葉の使い方で自分自身へも他人へも何らかの影響をもたらすことは明らかである。
これらの人々を変えた言葉が詰まった本を私が読まない理由はない。
以上が、現状で目一杯、私が書ける「たくさんの本を読む」理由である。
次に
本の内容を理解しているのか?
これは何を以って理解とするのか、読了とするのか?と同義であるとする。
答えは
「理解できるところもあるし、全く理解できないところもある。全部読んでも全く理解できない本もある。」以上
「本の内容を理解しているのか?」と言う問いに対し、逆に私は問いを立てたい。
- 内容を理解したというのはどの時点で言えばいいのか?
- 100%理解したと言えるまでは読んだとは言えないのか?
私は本を読むということについて、こだわりは捨てて行ったほうが、晦渋・複雑な本でも自由に楽に読めますよ、と言っておきたい。
私は本の内容を誰かに伝えねばならないとも思わないし、読書記録を書くべきとも思わないし、100%理解せねばならないとも思わない。
とにかく、全てパーフェクトな世界はどこにもないというのが現実世界だという認識である。
私はたくさんの本を読んできたのだから「他の人より優れている」などと鼻くそほども思わない。
そんな上から目線の考えが芽生えたら、完全なる「老害」である。読書家などと口が裂けても言いたくない。
本を読むとき、
- 最初から一字一句理解しながら読まねばならない。
- 読んだら感想を書かねばならない
- 読んだ内容をまとめ文章を書かねばならない
と、どこで言われのか?
学校じゃないか。
これらの学校で教えられた読書の方法3点には以下の暗黙の前提がある。
- 最初から最後まで読まないと本の内容はわからない(初等教育では音読は一定の効果があるかもしれないが、いつまでも同じ読み方しかしないのは成長を阻む恐れがあることは完全に無視されている)
- 読んだら絶対に理解できる(はずの)題材しか用意しない(理解できない本への向き合い方を無視している)
- 読んだ内容を表現できなければダメ(点数にできなければ学校は評価しようがないので無理にでも書けという嫌がらせ)
これらの暗黙の前提は現実の世界では全てひっくり返る。
- 一字一句読んでいたら一生かかっても限られた知識しか触れられない
- 読んでも絶対に理解できない本(世界観、文化)がある
- 読んだ内容をすぐ表現できなくても、心のどこかに残っていれば、いつかどこかで繋がることもある
- 言葉には現せないものやことはたくさんある
これが現実でしょ。
日本の学校教育では、必ず結果を出すという前提で行われている。
それは日本の学校教育内では動かしがたい現実かもしれない。(戦後教育の狙いをここで問うことはあえて避ける)
しかし、現実社会に出てみれば、全てが不確実で複雑、不条理に満ちて、暴力と権力が横溢しているのではないか。
さらにそこには正解はない。正義すら時代や国で異なる。様々な価値観や視野視座視点を持つと言う認識が必要。
学校で習った通りに勉強ができて高偏差値の大学へ行ったとしても、逆にその刷り込まれた価値観に思考が引っ張られてしまうことも多い。
私がいうまでもなく、それは日本の企業の現状を見ればわかることも多いと思う。
そんな社会を前に学校教育(ここでは読書という点においてのみにする)が何の力になるのであろうか。
ここは私が最も強く問いたいことである!
そこまで突き詰めなくても、
本を読むことさえ、学校教育からの刷り込みで自由にできないなんて、
もったいない!もったいない!もったいない!
読書なんてもっと自由でいいじゃん!
難しい本は読むのやめておこう…はもったいない!
読んでみないとわからない。
読んでみてもわからないかもしれない。でも読んで何かをつかもうとチャレンジしていけばいいじゃないか、と思う。
私も昨年にマルクスの「資本論」、一昨年にアダム・スミスの「国富論」を読んだ。
読んで意味あったの?わかったの?と問われれば、
私は意味はあったと思う。
でも、それは私にとって価値があった経験を得たというだけで他人が同じようになるという保証はない。当たり前だよね。
わかったのか?
もちろん、わからない部分は多かった。でもなるほど、と思うところは数多く出てきた。
とりあえず、それでいいと私は思う。だって何度も読みかえせばいいのだから。
どんなことでもそうだけれど、人は他人の立場に100%立つことはできない。当たり前だ。
それであっても、相手の気持ちや事情を慮ってお互いに助け合うのが社会でのコミュニケーションの望ましいあり方だと考える。
読書でも著者の視点に立って読む姿勢を持つことが大切だと思う。
わからないことがあって当然。それでも繰り返し読むことが私は時と場所を超えた著者とのコミュニケーションだと思う。
これが私の今の心境である。
かしこまって書くならば、
読書で自由を得ることは、社会で自由に生きることを得る「可能性」を掴むことでもあると思う。
もちろん、「絶対大丈夫」「信じていると必ず報われる」という世界は現実ではない。
そういう世界はファンタジーの世界はもちろんあって良いが、それは現実とは異なるものという理解する。(大の大人もこういうファンタジーの世界に生きている人が相当多いので若い人は注意していたほうがいい)
ともあれ、
正解もない、不確実なのが世の中の常なので、
「読書していれば大丈夫」
でもないし
「読書しない奴はダメだ」
でもない。
不確実で、正解がなければ、読書の仕方ですら自分が決めれば良いのだ。
とりあえず、読書に関して言えば上に書いた通り、学校で刷り込まれた方法では明らかに私は不自由だと思っているので、
本を読んでもどこまでもわからないことがある、という前提で、
死ぬまで読み終わらない読書が好きだ。
なんども読んでなんども考え行動することが好きだ。
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この私にとって、わからないことが世界を作り上げている事実。これは動かしがたい。
と書いてきて、何度も読み返す本に出会う機会が必要なのだとつくづく思う。
現状ではかなりテキトーに書いた本も多いので、まずは古典書を読み潰していくのが先決だと私は思っている。
と書いてとりあえず筆を置きたい。