音楽と読書と社会 日記編

「音楽と読書と社会」イトウの活動など日記

【音楽】日本アマチュア合唱の衰退〜合唱人はラップ聴け〜

世の中は紛れもなく大変化している。5年前の社会とは今は違うし、1年前とも違う。 社会構造の変化だけではなく、人の認識も変化している。 問題は変化を認識している人と、全く認識していない人の間の分断だ。

年齢が高くなれば変化を嫌う傾向は昔からある。しかし年齢だけではなく、思考の保守化・固定化が非常に気になるようになった。

柔軟に対応する人も多い半面、従来の考えに固執する人がいることが明確になったような気がする。

自分がどう思うか?感じるか?から。

先日CDを聴いていた。スウェーデン男声合唱団オルフェイドレンガルだ。

youtu.be

youtu.be


Orphei Drängar 合唱のためのコンポジション第3番〜Ⅰ. 艫

私は約30年間日本の合唱に触れてきた。いつも他国の歌・合唱音楽を聴くにつけて、日本のそれと根本的に何かが違うと考え続けてきた。

結論からすると

他国は個人の表現ありき

日本は全体の表現ありき

他国とはかなり粗い比較だが、少なくとも日本は個人の感覚や表現は全くと言っていいほど尊重されない。

私は高校の部活動から合唱音楽をやってきた。 そこにはなにがあったのか。 一つの正しい発声や音程に合わせることが音楽。 つまり、個人ありきではなく、同質性が音楽の前提なのだ。異質は認めず排除される。

個人の発声や感じていることはどうでもよい。それを示しても尊重されることなく、考えを示しても無視されたりバカにされて終わる。

さすがにそんな全体ありきの音楽表現なんてアウトオブデイトだろう?と思うかもしれない。

私もそう思っていた。しかし依然として全体ありきの音楽を行っているのが日本のアマチュア合唱界の現実のようだ。少なくとも昨年私が在籍した合唱団のあり方はそうだった。

もう全体や立場ありきの発想はやめよう

合唱という音楽形態は全体性が強く出がちだ。 個人が蔑ろになる可能性は強くなる。 しかしすでに現代はインターネットにより、個人がどう感じるか、どう行動するか、がはっきり示すことが出来る時代だ。 ならば個人の表現をはっきり持つことが重要になる。

もともと音楽は個別ものであり、その個人の主張が集まった集団ならば熱量は高くなると私は考える。

しかし個々人の主張がなく、全体ありきの活動を続ける人が多いのであれば、必然的に集団の熱量は低くなる。

つまり、個人の表現が蔑ろにされれば集団の熱量は低くなり、合唱団の衰退になると私は考える。

個人の表現が尊重されていない日本の合唱

日本の合唱は正しい発声や正しいハーモニーに「矯正」することが最初にある。

もともとの個人の声のあり方や音楽の感覚より、「まず正しい声づくり」や「正しい音感育成」なのだ。

ここでは自由さや感じる楽しさは蔑ろにされる。

そもそも若い人が自分の表現が尊重されていない音楽に進んで入るとは思えない。

日本の合唱は間違いなく衰退へ

先月、私は娘と東京下北沢にラップバトルを見に行ってきた。 非常に熱量の高いライブだった。そこには積極的に音楽に参加している若者がたくさんいた。

あの熱量はラッパー個人のガチの表現があるから成り立つものでり、 個々の表現に魅力があるのだ。

それは上手い下手という「他者や全体としての正しさ」ではない。

自分とはなにか?表現したいことはなにか?という「個人的なリアルの表現」である。

そこにみんなは魅了されていると私は感じた。

合唱人はラップバトルを見ろ

ラップバトルを見るにつけ、これは絶対に合唱はこれには勝てないと思った。 個々人の自由な考えが尊重されない場所が魅力的だとは私は考えない。

今の日本の合唱は 「みんなで同じことをやる」なのだ。

この価値観が良しとされるのは学校だけである。 これを引きずり、当たり前だと思っている人も多いようだ。

だが、そんな価値観を支持できない人が多くなってきた。

なぜなら人間は自由を求めるから。 より自由な表現の場に魅力を感じるはずだと私は思う。

ゆえに、個人表現を蔑ろにし続けるならば日本の合唱は必ず衰退する。 みんなで同じことをするのに喜びを感じる前に個人が喜びを感じることが大切であるし、それがはっきりしてきた。

日本の合唱が衰退しないための方策

それには、どんな表現であれ個人の表現は尊重する姿勢を貫くことであると私は思う。

発声方法を一方的に押し付けたり誘導したりしない。 音程が悪いと言って強制的に正そうとしない。 指導者の意図通りにいかなくてもいい。

「そんなことをしたらぐちゃぐちゃになるではないか?」 「音楽が成り立たなくなるではないか?」

そういう意見は見当外れだ。

個人が表現している音楽を他人が勝手な意図で誘導しようとすること自体が傲慢な行為ではなかろうか。

統率もなくていい。カオスも出来ていい。主張をしていく中で共通する音楽表現が出てくればいいのである。

別にカオスはカオスで愉しめばいいのだし。

え?こんなの理想論だって?

そうだろうか。

この基本的な発想から逃げているから衰退しているのだ。

自由な表現が出来ないところに多くの人は集まらない。

ただそれだけなのだ。

合唱人はラップを聴いて何かを感じたほうがいい。

【日記】2019年4月20日 音楽は生きている

今週1週間仕事を休んだ。 かなり体調が悪かった。

痺れと痛みが同時に来る。もうすこしなんとかならないかと思い、漢方治療に励んでいるが、狙ったとおりに行かない。

2年前よりは身体が動くようになったが、熱や痺れが出るようになってそれはそれで生活の困難さが伴う。

今週は指や腕に痺れが強く出て動かないくらいの苦しさがあった。

だから読書も難しい。キーボードはなんとか使えたのだが、腕が痛いので休み休み。目は充血し口の中が腫れて出血もあった。 なんとか耳は大丈夫なので音楽は結構聴いていた。

純セレブスピーカーでいい音が聴けることは幸甚。CDやネット音源も今までとは異なる良好な音質で聴ける。

先日、指揮者アンタル・ドラティの名録音集10枚ボックスが出た。米マーキュリー音源と思われる。 私もマーキュリーの録音は好きな音の方向。ミネアポリス交響楽団を振ったストラヴィンスキー春の祭典ペトルーシュカはよく聴いていたので、購入。

アンタル・ドラティ 名演奏集 CD タワレコヤフーショッピング

・構成数 | 10
・収録曲 | 【曲目】
Disc. 1
チャイコフスキー:祝典序曲「1812年」、イタリア奇想曲
ロッシーニ:歌劇「泥棒かささぎ」序曲
アルベニス(アルボス編):組曲「イベリア」
ファリャ:歌劇「はかなき人生」より間奏曲と舞曲
ミネアポリス交響楽団
1954年、1957年録音

ヴェルディ:歌劇「運命の力」序曲
ロンドン交響楽団
1960年録音

Disc. 2
ムソルグスキー(ラヴェル編):組曲展覧会の絵
ムソルグスキー:歌劇「ホヴァンシチナ」より前奏曲ペルシャの女奴隷の踊り
ミネアポリス交響楽団
1959年録音

リムスキー=コルサコフ:ロシアの復活祭、スペイン奇想曲
ロンドン交響楽団
1959年録音

Disc. 3
ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第3番
バイロン・ジャニス(pf)ロンドン交響楽団
1961年録音

バルトーク:ヴァイオリン協奏曲第2番
ユーディ・メニューイン(Vln)ミネアポリス交響楽団
1957年録音

Disc. 4
R.シュトラウス(ドラティ編):「ばらの騎士組曲
交響詩ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら
交響詩ドン・ファン
交響詩死と変容
ミネアポリス交響楽団
1955年、1958年録音

Disc. 5
リスト:ピアノ協奏曲第1番
アルトゥール・ルービンシュタイン(pf)ダラス交響楽団
1947年録音

ドヴォルザーク:ヴァイオリン協奏曲Op.53、
スケルツォ・カプリチオーソOp.66
ナタン・ミルシテイン(Vln)ミネアポリス交響楽団
1951年録音

スメタナ:歌劇「売られた花嫁」より序曲、ポルカ、フリアント、道化師の踊り
ミネアポリス交響楽団
1958年録音

Disc. 6
ワーグナー:歌劇「さまよえるオランダ人」序曲
コヴェント・ガーデン王立歌劇場管弦楽団
1961年録音

ワーグナー:歌劇「ローエングリン」より第3幕への前奏曲
歌劇「タンホイザー」より序曲、ヴェヌスベルクの音楽
歌劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー」より第1幕への前奏曲
楽劇「パルジファル」より聖金曜日の音楽
ロンドン交響楽団
1959年、1960年録音

楽劇「トリスタンとイゾルデ」より第1幕への前奏曲
ミュンヘンフィルハーモニー管弦楽団
1959年ライヴ録音

楽劇「トリスタンとイゾルデ」より愛の死
ロンドン交響楽団
1959年録音

Disc. 7
ガーシュウィン:パリのアメリカ人
コープランド:バレエ音楽「ロデオ」
ガンサー・シュラー(1925-2015):パウル・クレーの主題による7つの習作
ブロッホ:シンフォニア・プレーヴェ
ミネアポリス交響楽団
1957年、1960年録音

Disc. 8
プロコフィエフ:交響曲第5番、スキタイ組曲組曲「三つのオレンジへの恋」Op.33a
ミネアポリス交響楽団
1957年、1959年録音

Disc. 9
ストラヴィンスキー:バレエ音楽ペトルーシュカ」(1947年版)、バレエ音楽春の祭典
ミネアポリス交響楽団
1959年録音

R.シュトラウス:楽劇「サロメ」より7つのヴェールの踊り
ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団
1962年録音

Disc. 10
チャイコフスキー:バレエ音楽くるみ割り人形」全曲
ミネアポリス交響楽団
1955年録音

ムソルグスキー展覧会の絵リヒャルト・シュトラウスのオケ曲、録音の素晴らしさがよくわかる。

純セレブスピーカー友人の紙器会社よりいただいた和菓子の箱で作った。 ユニットはダイソーのスピーカー使用

【日記】2019年4月4日 風が吹けば身体が痛い

からだじゅうが痛い。

昨日のような強風だと特に痛い。特定の部位ではなくどこもかしこも。

漢方治療を始めて2年弱。治療中の身だ。

それまではいわゆる病院で処方される薬を飲んでいた。

20年近くも飲んでいても結果は出ないので治療法を変えた。

その影響で痛みが出ている。

 

痛いことをずっと言っていても痛みは変わらないので、少し違うことを書く。

 

面白く愉快なことだ。

人生は愉快でありたい。愉しく快い。これを極める。

 

 昨日も夕方まで寝込んでいて、17時過ぎにこのままでは死んでしまう!と思い、とにかく外出した。

もう外は暗くなりかけていた。

一体私はこれからどうするのか。どうなっていくのか。どうしたいのか。

 

もちろん欲求はどれだけでもある。しかし身体が動かない。仕事に行くことすら困難な日が続いている。

時間は日いちにちとなくなる。

道を歩くのも相当に難しい。10分歩いて電柱にもたれかかる。それでようやく地下鉄に乗り込む。

自分がいつも行く書店に向かった。

本当はニーチェの「権力への意志」を読んで買おうと思っていた。

 しかし、ふとした棚のコーナーを目にした。

 

倫理学

 

倫理学という学問はまあ分からなくはない。

しかし勝手なイメージしかない。

なにやら道徳やあるべき論を振りかざす机上の学問という感じ。

本当にわかる倫理学

本当にわかる倫理学

 

上の入門書を開いてみる。すると倫理学は道徳哲学でもあるという。

しかし、

ヘーゲルにとって倫理は道徳とは異なり、個人留まる道徳を超えた、『共同体の学』なのだ。」(本文11ページ)という。

倫理学は個人がどう生きるべきかを問うだけでなく、人間にとって善い社会とは何か、個人と社会の両方を考える必要がある。倫理とは『個人の道徳規範』であり、『共同体の倫理』である。」(同ページ)

倫理学は個人の問題にとどまらない。

たくさんの人が関わる社会性のある善いもの、こうありたい、あるべきというものはどういうものかを考えることと言ってもいいかもしれない。

 

ここで考えた。

人権や表現の自由と言われるものは憲法などの法律(完全義務と言われる守らねばならない絶対的な義務)で保証されている。

しかし法律で保証されていても、では法律で保証していなければ人が人として生きることを認められないのか。それでは住んでいる国によって人間として扱われる人とそうでない人が出てしまう。

これでは非常に困る。

 

ここには努力目標である「不完全義務」としての倫理が必要になる。

これはいわゆる社会においてこういうことをすべきだと言うくらいのもの。たとえ守らなくても罰せられることはない。

 

こうして考えると倫理とは完全義務と不完全義務の両方のバランスと区分が必要なのだと思える。

 

昨今のヘイトスピーチや他者への暴力行為について、この倫理学という手法で冷静にみることは必要だ。

なんにしても相互了承の価値観を求めて行く必要がある。

それなしでは私もあなたも生きることが難しくなるか蹂躙するされることにもなりかねない。

倫理学という古いようで、今必要な考え方。

もう少し倫理学については理解を深めたいと思うが、今日はここで限界。また日を新ためるとしよう。

 

【日記】続・遺言的に 精神的暴力、モラルハラスメントの恐ろしさ 2019年3月28日

はじめに

 

これから書いてあることを受け入れられない人も多いことと思います。

ひょっとして御自分の重い過去の蓋を開ける行為となり、場合によっては辛い記憶を呼び起こすことになるかもしれません。

だから読みたくない、と思ったらそこで無理せず画面を閉じてください。

 

 

暴力やハラスメントは無条件にやめよう。

 

私はしない。私にしてくるな。

 

幼少時から成人になってもダメ人間扱いされていると、こういう状態になってしまうのかと思う今日この頃です。

 

私はいま歩くことにも苦痛が伴います。身体に緊張で力が入れる習慣がついていて脱力がしづらく辛い状況です。

家庭でも心を許すことができず、緊張した環境に囲まれて生活してきました。

 

思い起こせば安堵することやゆったりした休日すら過ごせない苦しい子供時代でした。

その苦しさは今でも続いています。

 

しかしハッキリ言います。

私が弱いのでもなく、無能なのではありません。もちろんダメ人間でもありません。

 

暴力や虐待する人間のほうがダメなのです。

 

いまだに家庭でも学校でも社会でも暴力やハラスメントが横行しています。

しかも暴力やハラスメントで攻撃してくる相手がその行為に無自覚で無頓着です

なおかつ暴力を平然と正当化する人もいます。

こんな暴力が普通だと多くの人は感情や欲求を殺して生きざるを得ません。

最終的に肉体にすら影響が出てきます。

実際私がそのいい例です。

その環境下において死にかけました。

そして今、再び死に向かっています。

 

このような苦しみはどこから来るのか。

私にある苦しみの多くは精神的な暴力から来ているのです。

精神的な暴力は、肉体的暴力をあからさまに行なうよりも残酷な行為です。

それは善良さを装って相手に罪悪感を抱かせる、いわゆるモラルハラスメントです。

モラルハラスメント(moral harassment

暴力は振るわず、言葉や態度で嫌がらせをし、いじめること。精神的暴力。精神的虐待モラハラ

 

家族の中で親よりも大人になることを強いられた高校生時代

妹と父の喧嘩に仲裁に入った時がありました。私が高校生の頃です。

喧嘩の理由は、妹の友達への父の言動でした

父は妹の友達を不良と断じた上で、友達の人格否定をして交友の断絶を妹に命令したのです。

「自分が怒られるのならまだしも、友達を貶めるのは許せない!」

こう泣き叫んで妹は怒りと悲しみを露わにしました。

この時、私は家族の危機だと感ました。そこで私が仲裁しました。

しかし、その時にまた衝撃的な言葉が父の口から出たのです。

「妹はオレのことを聞かないから、じゅんが妹のことを面倒見てやれ。」

その時私は思いました。

「私が妹を支えなければいけない」と。

しかし一方でこう思いました。

 父は親の役割から逃げて、子供の私に責任転嫁しているだけではないのか?

  

大学受験に無関心な親

親の一方的な感情の押し付けで疲弊する私

肉体的な暴力は身の危険を感じますし、誰でも暴力だとわかります。

一方で精神的な暴力であるモラルハラスメントは表面化しにくいし、日々ジワジワと行われるために被害者も逃げる行動が遅れる。非常に陰湿な暴力です。

 私は父親から「国公立大学へ行け」「エンジニアになれ」と言われ続け育ちました。

それだけでは大した問題はないのですが、ここからが違います。

 

私が高校の時、文系の社会学系の学部に進みたいと思い勉強していました。しかし父はそれについて無関心を装いました。

私は自分の勉強したい学部を国公立大学を中心に関東や関西の大学のなかで探しました。なんとか進路を決めたのです。

 

ところが受験2ヶ月前。11月に父から言われました。

「金が出せなくなったから自宅から通える範囲にしてくれ。」

あと受験まで2ヶ月。父はそれまで「国公立に行け」の一点張りの中、経済的理由を一方的に言ったのです。

 

私がその時、大阪の公立大学を受験したいと言ったところ、「そんな大学出身者はウチの会社(某大手電機メーカー)にはいない」と言って完全に否定しました。

自分の会社にその大学出身者がいないだけでも認められないのか?と愕然としました。

 

しかしここでいざこざを起こしていても時間を消耗するだけだと思い、やむなく地元の国立大学に進路変更しました。

しかし、準備も足らず、精神的にも追い込まれ睡眠もゆっくり取れなくなり、結局受験は失敗しました。

その時、父はこのように言いました。

全てオマエの勉強の怠慢であり、予備校に金を出して行かせてやるのは親だから、ありがたく思え。

しかも予備校に行かないと怠けるから、絶対に行けという命令です。

受験直前に一方的な都合で進路変更させたのは父です。受験を失敗した原因がそこにあるかもしれないという考えもありません。それをわからないのでしょうか。

 

私は砂を噛むような思いで1年間の浪人生活を過ごしました。既にわたしには自由な進路選択などありませんでした。受かる国公立大学に行くしかなかったのです。

 

それでも私は大学で学びたかったことがありました。できれば研究職に就きたいという希望もありました。

それについても両親に言い続けていました。

しかし彼らの反応は一応に同じです。無関心な態度です。

そして私がいざことを起こそうすると必ず仕掛けてくるのが全否定の言葉です。

「そんなことでは食っていけない」「カスミを食っていくつもりか」

ことごとく子供の欲求を封じます。

 

 

大学卒業前に私は次のようなことを思い出したように両親に言いました。

「オレ、社会学を大学で勉強したかったんだよ」

このあとの父親の言葉が絶望的です。

そんなにやりたかったのなら、なぜハッキリ言わなかったのか?

それだけ考えていたらなんとかしてやったのに。

 

 

これは明確なモラルハラスメントです。

まず私は進路についての希望を散々言っていました。社会学部のある、できれば私立の大学でと。

関西地方に私の希望に合った大学がありました。私は家庭の経済的問題をそれなりに理解していました。

それでもなんとか学びたかったので、新聞奨学生の制度を使いたいということすら話していました。

しかしその時も「そんなことをしては学業をおろそかにしてしまうからダメだ」と父は私の考えを封殺しました。

大学で学ぶために、具体的な方策を私は調べたし、それを親には言いました。

しかしそのことを

「息子がはっきり言わなかったからわからなかった」と何も聞いていなかったかのように平然と言うのです。

これほど重要なことを聞いていないと言い、そのことで私を責めるのです。

私が神経をすり減らして進路変更に思い悩ませていたことすら、知らなかったとでも言いたいのでしょうか。

 

こんな目にあっていても、私自身が本当に伝え方が悪かったのだと最近まで思っていました。しかし、それは全くの間違いだとやっと気付きました。

これは親の子供への精神的暴力、つまりモラルハラスメントだったのです。

 

成人後も続くハラスメント

その後もさらにハラスメントは続きました。

高校受験を終えた妹に「県下最低の高校しか行けないなんて」と父の言動。

これは子供の人格否定と言わずなんというのでしょうか。

その後、妹は成人して就職してからも門限を設定されました。

結婚するまで自立を許されず、実家での監視下に置かれていたのです。

 

私に対しても卑劣なハラスメントは続きました。

私が結婚して実家を出たすぐのことです。

「銀行から実家に親展の封書が届いたので取りに来い。」と父から連絡がありました。私は結婚に伴う住所変更届出を忘れていたことを思い出し、急いで取りに行きました。

実家に着きその封書を見たとき既に封が開いてました。

不審に思い尋ねると、父は「親展だから開封した。銀行口座の残高不足で引き落とし不可の文言を読んだ。」

私は怒りました。なぜ勝手に開封したのかと。しかし父はその行為を謝りません。

「親展だったから封を開けた。オマエのことを心配に思っただけ。オマエが残高不足を注意しないからダメなんだ。」これが父の言葉です。

私には明らかな非があったのではない。犯罪行為でもなく、単なる残高不足の通知だけです。

そもそも他人宛ての封書を勝手に開ける行為はマナー違反です。子供であろうともれっきとした大人として自立している、その人のプライベートな封書を覗いた行為に問題があります。

しかし父は私の封書の中身を見てしまったことを私に詫びるどころか、私の落ち度とすり替えてひたすら責めたのです。

もちろん、私は抵抗しました。しかし全く父は意に介しません。

のちに父にこのことをあらためて話したところ、

「記憶にない、そんなことするはずがない」の一点張りでした。

これも衝撃的絶望です。都合の悪いことは全て記憶から消すことのできる人は今思えばサイコパスの要素があるのかもしれません。

 

あまりに細かく書きすぎて私も嫌な気持ちになりましたが、これでもまだ序の口です。

そしてこれらは被害妄想ではなく事実です。

もしこの文章を読んで、こんなことは日常茶飯事で大したことないと思うのであれば、それはハラスメントの連鎖に取り込まれている可能性が高いかもしれません。

 

私は一連の両親の言動、とりわけ父親の病気ではないかと思える行為に悩みましたし、今でも悩んでいます。

私は自らの精神的健康を確保するために、両親との一切の連絡を絶っています。

よくよく思い返しますと、

彼ら両親は自分の子供のことなど実はどうでも良かったのではないか、ということです。

自分の都合のいい時だけ一方的な親の立場を振りかざしていただけではないか。

 

家族間のモラルハラスメントの実態

よく考えると両親の言動は大きな矛盾があります。

子供を未熟なものとして支配し、考えや欲求を封殺します。その一方で、都合が悪くなると全ての責任を子供に丸投げするのです。

本来子供が未熟ならば、親はその未熟さをカバーし導く責任があるはずです。ところがその未熟さをひたすら責め続けるだけです。

また、子供から親の矛盾や未熟さを指摘されると全く理解しないか無視をして逆ギレします。

とにかくその時々で変わる親の感情を一方的に押し付けて、それを受け入れない子供をひたすら攻撃します。

これが精神的暴力と言わずなんと言うのでしょうか。

 

 ハラスメント行為が連鎖する仕組みはこちらの本に詳しい。ご参考までに。

ハラスメントは連鎖する 「しつけ」「教育」という呪縛 (光文社新書)

ハラスメントは連鎖する 「しつけ」「教育」という呪縛 (光文社新書)

 

 

こうしてハラスメント行為を自分の体験を踏まえて綴るとはっきりします。

ハラスメントは重大な暴力であり犯罪に等しいものだということを。

ハラスメントをしている私の親はいまだに反省することはないと思っています。

私が必死に言っても絶望的にわからないのです。反省の気持ちも感じない、おそらく私が死んだ後も常に私が悪者として彼らの認識であり続けるでしょう。

 

ハラスメント行為は人間の人格や存在の否定そのものであると私は考えます。

決して見過ごされてはならないのです。

 

人間として表現を認められず、考えも尊重されなかったなら、

それは精神の死であり、魂の殺人である。

これほど重要なことなのに多くの人が気づきません。

気づくどころか、みんな互いに人の存在を無視して否定しまくっています。

 

こんなことではみんな死んでしまいます。

 

私は今死の淵に立っています。

この状況になっても感じることは

どんな理由があっても、人格否定をして子供を育ててはいけない。

ということです。

人格を否定してしまうことが今まで通りに行われるならば、子供に私と同じかそれ以上の苦しみを抱えさせてしまう。

 

そんなことは私にはできません。

 

そんなのもう自分だけで十分です。

懲り懲りです。やめてほしい。

 

 

ここで私はいちど死にます。

 

そして私は本来の自分として再生していこうと思います。

もう他人のために自分を殺すこともないでしょうし、誰の存在でも肯定しようと思います。

 

しかし残念なことに、もう私の生きる時間はあまりないのです。

一昨日書きましたが、それからも刻一刻と死期に近づいています。

 

ここまでの考えに至ったのに。悔しい。

 

そこでお願いがあります。

この文章を読んで共感した人は、

このハラスメントをしない、させないことをネットでもリアルでも良いのでどこかで表明してくださいませんか?

 

そういう人が1人でもいたら私の経験も決して無駄ではなかったと思います。

 

私もまだ生きていくことができれば、共に行動していきたいと思います。

 

どうかよろしくお願いします。

 

伊藤淳

【日記】2019年3月26日 memento mori 遺言的に

かれこれ20年近く病気と戦い続けている。

 

これまで様々な治療を試してきた。金銭的なことも考えつつもできることは全て試してきた。

セカンドオピニオンも受けた。頭痛がひどければ脳ドックにも行き精密検査を受けたこともある。薬の投与で体重が一時期15キロ増えた。藁をも掴む思いでスピリチュアルヒーリングなるものを受けたこともある。

 

極度の不眠と頭痛、腹痛に始まった症状。

今まで受診した医師たちはこの疾患の原因の特定すらできていない。

単なる薬の投与では何も変化はないのに、それを無視して機械的な投薬が続いている。医師は患者に対して治療はしない。何にも責任を持っていない。無能だとも思えた。しかしそれが現実だった。

 

自分なりに病気の原因は認識している。原因は一つだけではなく複合的にある。

大きなものとして親子関係と子供の頃から周囲より受け続けてきた精神的な暴力によるものだ。私はこれが重大だと考えている。

 

人間は緊張と抑圧のなかで生きていると、体を緩ませることや好きなことができなくなる。リラックスして心を解放ができなくなる。そして次第に身体も心も病んでいく。

24時間緊張状態が習慣になっているのだから自ずとそうなる。病理学を考えなくてもわかることだ。

 

それについて医師たちは誰も認めない。

そんな子供の頃のことを言っても仕方がない、昔は誰でも同じことをされたと。

 

 

 

試行錯誤の末、今は治療法を変え漢方治療を中心に行なっている。

これによりかなり前向きな変化が出ている。治癒・寛解にはまだ遠い感じがするが、それでも体に変化が出ているのでかなりマシだ。

細かな処方プランは書けないが、痛みが出ることについて私は納得している。

最近カウンセリングも必要ではないか思い始めているが、医師同様カウンセラーも玉石混淆だ。慎重に選ぶべきだろう。

 

ただ今の問題として副反応だとはわかっているものの、治療過程での体の痛みがひどい。

 

昨年末からは痛みのために立つことすら難しい日々が続く。

しかしそれより前は1ヶ月寝たきりになることが度々あった。その時よりはいまは体は動くのでずっとマシである。

 


命は長くない、もうすぐ死ぬかもなぁと私は感じている。

もう子供の頃からあったこの感覚が日増しに強くなってきた。

 

先日診療先でその私の認識そのものをズバリ言われた。
実際に命が危ないと。

 

自分が感じていることが現実なのか。

 

memento mori

 

昨年も人の死に直面して痛感した。

死んでしまった人をどんなに弔っても、どんなに恨んでも、相手には届かない。

ましてや会話などできない。時すでに遅しである。

 

もちろん死んであの世で会えるかどうかは個々の信仰の話だが、私は人との付き合いは現世が全てだと思っている。

 

人が死んだ後はその人に何も伝えられないし話もできない。なんらかの供養をするにしてもそれは生きている残された人たちの自己満足に過ぎない。

だから、生きているうちに会って話したり、手紙やEメールでコミュニケーションを取ることが最も大切だと私は思う。

 

コミュニケーションを蔑ろにしている人たちがたくさんいるので、ここで一言申し上げたい。

私を含めた目の前で生きている人と会話、コミュニケーションをして欲しい。

多くの人が目の前の人と話をせずに立場や肩書きを見て話をしている。ひとりの人間に対してではなく。

 

あるいは存在すら無視をする。誰もいないかのように振る舞う。

リアル・ネット上と関係なく、私とコミュニケーションしてきた皆さんには心より感謝したい。ありがとうございます。

 

一方で私を無視したり忌避してきた人たちへ。

私の葬儀に来ても涙を流して欲しくないし、香典もくれなくていい。

そんな偽善的な涙や形だけのやり取りなど私が最も嫌うことであると強調する。

本当に涙を流すのであれば、生きている私と心からの会話してくれた友達だけでいい。

 

だから、

どんなに昔からの知り合いであろうとも肉親であろうとも、私の存在を無視した人、蹂躙した人、関心のない人は私の葬儀には決して来ないで欲しい。

どんな人でもこの世からいついなくなるかわからない。

このことをよく考えたい。

 

memento mori

 

死をおもえ。

 

生きているこの時だけが全てだと思うのです。死んだ後は本当にわからない。

死を考えれば、生きることの本当の意味が理解できる。

そう思えばこの世界で感じる全てのことが価値のあるありがたいことかもしれない。痛みを含めて。

 

 

 

 

私はただ生きたい。

 

だから時間を無駄にしない。

願わくば、これを読んだ人が人生時間を大切にされんことを。

 

もう少し生き続けて、この記事が「死ぬ死ぬ詐欺」として笑いネタにしてなれば、いいなあ。