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イトウの音と本の綴織

【日記】2019年1月23日 音源探求について〜「好き」が最強〜


先日から作りつづけている純セレブスピーカーで音楽を聴いている。本当に気持ちのよい音が出る。

音楽がますます好きになって困るよ(笑)。

はんだ付けして箱に入れれば、すぐ完成してしまう高音質もの。

 

純セレブスピーカーは以下を参考に。

jun-serebu.net

 

昨年の引っ越し後、随分オーディオの試行錯誤をしてきた。

15年間使ってきたバックロードホーンスピーカーが響きすぎなのか、全然いい音がしなくなったのでついに処分した。

おそらく住宅が木造から鉄骨になり、音の響きが変わってしまったのだろうと思う。

とにかく音楽が思ったように聴けないとイラつく性分なので、たちが悪い。

 

なんとか活用を試みたがサイズの大きさもあり、純セレブスピーカーとお役目交代と相成った。

 

今日はひたすらCDのリッピング作業と鑑賞。

スピーカーが変わると以前からの愛聴音源を聴き直す(オーディオあるあるだ)ことになる。

これが無意味に楽しい。ここ数日間こればかり。

純セレブスピーカーは素晴らしすぎてヤバイ。

 

思えば中高生時代から音楽とともにオーディオに興味を持ち始め、今に至る。

 

今も昔も金はないので、オーディオにはさほどお金をかけられない。しかし音楽はたくさん聴きたいので今でも毎日朝から寝る前まで音楽を聴いている。

外出もするし歌うし読書も会話もするので、意外と時間はない。時間はないくせに膨大な音源を聴き続けてたい欲求まみれだ。

これは自慢にもならないが、誇るべきことである。

結果として音楽と読書から世の中を見ることができるようになっているということ。

 

一方で周囲との差にも直面する。

 

もう20年前のことだから書いてもいいか。

当時合唱団にいたときのこと。

モーツァルトのミサ曲ハ短調(いわゆる大ミサという曲だ)を演奏するためにプロオーケストラから、当時いた合唱団に出演オファーが来た。

 

私はたその曲をしっかり聴いたことがなかったのでCDをタワーレコードにすぐに買いに行った。(まだYouTubeも今ほどでないし、ネット通販も盛んでない頃だ)

 

最初に買ったのはフランツ・ウェルザーメスト指揮のCDだった。そこそこ良い演奏だと思ったが、そこはわたしのこと。

1つの演奏では納得しないので、数枚追加で買った。マリナーの新旧、バーンスタインカラヤン、ヘレヴェッへ、パロット、ノイマンなど‥結局かなり聴き込んでしまった。

 

なにも考えずに、練習時に団の友人と情報交換しようと思ってCDを数枚持っていった。

 

そこで

「じゅん、それだけ持っているなら1枚貸して」

「おすすめのを貸してください」

こんな人が数人出てきた。

まあ貸してもいいけど。減るもんじゃないし、いいけど。

 

しかし、解せない…。(↑不良のカツアゲのような文言だし)

 

彼らは一向に自分の身銭は切ろうとしない。彼らは自分から探して買おうとしない。

どういうわけだか、彼らはすべて名だたる大企業の会社員たちばかりだ。おそらく収入はわたしの倍くらいあったのではないか(今なら10倍くらいになっているだろう)。

 

だからお金がないのではない。

単に「音楽を積極的に取り込もうという気がない」だけなのだ。今でいうところの情報弱者か。

 

人から手軽に借りたり、情報を得て済まそうとしている。

更にわたしから言わせれば、彼らは本当の音楽好きではない。

 

別の面から見れば、好きでもないことを無自覚に好きだと思いこんでいるので気の毒だと言えるかもしれない。

しかし他人にフリーライドしようとするメンタリティが私は気に入らない。私は可能な限りギブするのは厭わないが、相手がフリーライドのクレクレだと正直げんなりだ。

 

そういう人は基本的に無自覚に思考が受け身なので、音楽を積極的に聴かない。だからどんなにこちらがいい演奏を紹介してもほぼ定着しない。

この虚しい状況はどうやら今も変わらず進行中のようである。

 

だから、最近はそういう人たちと話しているだけでもそこの浅さが見えてしまう。単に演奏が上手い、歌が上手い、楽譜が読める、というスキルの問題ではない。

 

感じるのは「純粋に音楽が好き」というシンプルなことだけである。

 

好きと感じることは人それぞれでいい。好きなことをその人なりにただ続ければいい。そういう好きなことに正直に向き合っている人は、話も姿も豊かである。これは本当にそう感じる。

 

好きなことをやっている人とそうでない人。この差は時間とともに歴然としてくる。

 

人の人生はいろいろだから、私は強制はしない。ススメである。

 

好きなことを自分の軸でやり、そこから世界を見ることをおすすめする。

私も振り返ると音楽と読書を好きでやってきただけ。なんの強制もされていない。

強制されてやったことは基本的に定着しないし忘れる。当たり前だ。

 

(ただし、好きを仕事に、というのは私は懐疑的だ。仕事自体にそれほど重要な意味を感じないからである。好きなことをやるために、仕方なく仕事をやるというならまあ共感はするが。)

 

閑話休題

私は音楽がただ好きなだけだ。これは一点の曇りもない。

一日音楽に浸っていると疲れるかもしれないが、嫌ではない。

苦役でも勉強でもなく、単に楽しい。

 

好きなことはやる。嫌なことは基本的にしない。

 

これだけである。

 

好きなことは正直にどこかで表現できるところがあるといいと思う。

 

 

誰とも比べられない「好き」が最強であると思う。

【音楽】ああ素晴らしき、純セレブスピーカーの世界!!

先々週1月10日思い立って東京大学東洋文化研究所に行ってきました。

ある展覧会があったのです。

jun-serebu.net

これなんですか?

純セレブ文明ってなに?

東京大学でなんかごっつい怪しいことやっていないか?と思われること間違いない。

昨年5月くらいに音楽家片岡祐介さんと東京大学教授の安冨歩さんの発見した「純セレブスピーカー」というもの。

 

引用が長いですが。

純セレブ文明の夜明け 
〜道(タオ)の思想に基づく非線形スピーカーのよろこび〜

セレブとは、英語では「有名人」、日本語では「金持ち」というような意味だが、いわゆるセレブは、有名だとか、地位が高いとか、金があるといった根拠を必要とする。「純セレブ」とは、そのような根拠を必要としない、純粋のセレブのことである。純セレブは、自分がセレブだと悟ることによってのみ存立する、究極のセレブである。

今回、展示する「純セレブスピーカー」は、この純セレブ思想を表現する具体物である。スピーカーは、1876年に開発されたベルの電話機以来、140年以上の歴史があり、もは完全に成熟した産業だと考えられてきた。

しかし、2018年5月に、片岡祐介(音楽家)と安冨歩東京大学東洋文化研究所教授)とが、スピーカーユニットをダンボール箱に詰めて、中に紙くずを入れる、という極めて簡単な手法で、驚くほど良い音のするスピーカーができることをを明らかにし、これを「純セレブスピーカー」と名付けた。このスピーカーは、スピーカーユニットが作動するときに、高い非線形性を帯びた運動をすると考え、それを固定して制御するのではなく、ゆるく支えて自由にのびのびと運動させる、という、独自の考え方に基づいている。この発想は、安冨の「老子」研究とつよく響き合っている。それゆえ、純セレブスピーカーは、道(タオ)の思想に基づく、非線形スピーカーだ、と捉えることができる。

純セレブスピーカーを聞き、あるいは自ら作る体験は、固定し抑制して制御する、という発想から離れ、ゆるくささえて共に運動する、という老子的な発想を、よろこびをもって体得する有効な手立てである。そればかりか、西欧に起源を持つ近代文明の桎梏を乗り越える、新たな「純セレブ文明」の夜明けを告げる産物だと我々は考えている。 

 

 

東京大学 展覧会「純セレブ文明の夜明け 〜道(タオ)の思想に基づく非線形スピーカーのよろこび〜」 | 純セレブスピーカー 純セレブ堂 より

もうなんのことやら…かもしれない。

これだけ文章で能書きたれても「純セレブ」という思想はなんなのかわからないと思う。

 だから、そこは音楽でわかるというのである。

 

純セレブスピーカー 安冨歩 片岡祐介

【純セレブスピーカーとはなにか?】 

片岡 祐介

「純セレブスピーカー」とは、大雑把に言えば、ダンボール箱にスピーカーユニットを差し込んだだけの簡素なスピーカーのことです。箱内にクシャクシャにした紙類を入れて、空洞の形を複雑化し、余分な箱鳴りを抑えているのも特徴です。

使用するスピーカーユニットや箱の種類よって、音にさまざまな個性が出ますが、けっこうテキトーに作っても、驚くほど音楽的な音が出るのが特徴です。運が良ければ(あるい製作者の感覚が良ければ)数百万もする高級スピーカーの音を軽く超えてしまったりします。なかなか信じてもらえないんですが、実際に作られたり、現物を聴いてみたことのある多くの方々に、驚きをもって納得していただいています。

わたし片岡祐介は、十歳頃から、既成の楽器だけではなく、日用品や手作り楽器を日常習慣として演奏してきました。また、子どもたちや障害児者と共演する即興音楽の活動を二十年以上続けています。音楽が「文化」として定着する前の根源的なものを探り続けてきたともいえます。「ロック系が好き」とか「この歌、知ってる歌だ」という記号化された音楽のありようではなく、乳児もおもわず踊り出すような音は、どんな「出方」をする音かを、僕自身(まだ途上ではありますが)かなり身体化していると思っています。

そんな片岡の経験と、安冨歩さんの膨大な研究(おもに複雑系科学や東洋思想)が出会った結実のひとつが「純セレブスピーカー」といえるかもしれません。「音波を発生する機器」ではなく、音楽そのもののような、生き物としてのスピーカーを実現させました。そしてまだまだ探求中です。

「重さ」よりも「軽さ」、「安定」よりも「不安定」、「固定」よりも「動き」…

 

 

最後の 

【音楽】2019年1月 行くコンサート

1月行くコンサート

 

1月13日14日 みよし市 カーデンホールにて 

www.fm-beat.com

名古屋友弦合奏団第23回演奏会

1月24日 セントラル愛知交響楽団

1月26日 村上曜 バッハ無伴奏チェロ組曲 全曲演奏会 

www.facebook.com

音楽が間近に聴けるさくらホール。

www.sakura-hall.com

 

コンサートはブログで書くか、何らかのかたちで感想を公開するつもりです。

聴いた直後Facebookライブで話して、数日後にブログで書くという形をとるかな?と思っています。

 

【日記】2019年1月3日 今年やろうと思うこと。

今年やろうと思うこと。

  •  簿記、行政書士Pythonの勉強(会計、法律、コンピュータプログラミングの勉強)
  • いろいろな人に会いに行く
  • いろいろな音楽を演奏し、聴き、応援する。
  • 読書する。

地味ですね!

すべて今までやってきたことであり、もっと進めたいと思う。

派手なものは幾分疲れるので悪くはない。

解脱寸前 究極の悟りへの道 (幻冬舎新書)

解脱寸前 究極の悟りへの道 (幻冬舎新書)

 

小池龍之介さんの本を読んでいる。

感覚や魂が研ぎ澄まされていくとはこういうことなのか、とヒントを得られることが多い。

 

今年もよろしく。

 

 

 

【日記】2018年12月31日 引っ越しができたことを嬉しく思う年でした。

今日は大晦日

今年はとても変化を感じた年だった。 引っ越しができたのは本当に良かったと思う。

行き詰まっているときはこうやって引っ越しをするのは悪いことじゃない。 引っ越してから非常に自分自身のことについてじっくり考えて内面を見つめることができるようになった。

前に住んでいた場所は、騒音や周囲からの妨害などで落ち着かない。孤独になることすらままならないし、外出こともいちいちストレスを感じていた。

と、そんなことを感じるのも引っ越したあとに実感できたことだ。環境を変えなければ、見えないストレスがどれほど大きなものだったのか、知る由もないのだ。

今、家族3人で坂は多いが閑静な住宅街に住んでいる。当たり前だが夜は非常に静かだ。昼間の外出も車通りが激しくないので、徒歩でもストレスはさほど感じない。

こんなに周囲に邪魔されず、集中できるなんてどれだけ幸せなのだろう。 逆に、この程度の静寂すらも以前は担保されない生活だったのだと思う。 あのまま引っ越さずに生きていたら、とんでもなくムダに苦しい時間を過ごしただろう。そう思うとゾッとする。

本当に落ち着いて物事を考えることができるので、良かったと思う。

うまく行かないとき、環境は変えられるのなら真っ先に変えるべきことだと思う。

良いお年を!