【日記】2019年3月19日
何気なくネットで調べ物をしていたら名古屋市職員の退職後の再就職先が公開されていた。
課長級以上の職位のみ公開されていた。
公務の嘱託・非常勤も多いが、外郭団体の長職、一般企業の監査役、部長などほぼ天下りと見られる再就職先が多くあると見受けられる。
友人知人には公務員や教職員が多い。こういう人たちとの付き合いはかなり長い。
公務員の偉くなるとこういう退職後も「立場」が用意されている「人生設計」なのだな。
翻って私はこういう立場も得られないし設計もできない。しかし羨ましいどころか、彼らが気の毒に思えてならない。
この時期になると口々に「内示」そして4月1日の「異動」が囁かれる。
これは公務員教職員の独特の会話だと思う。私企業だと異動は常日頃からあるので、4月1日だけが特別でない。
最近、公務員のリクツや思考癖について考える。
彼らにとって前例主義が尊重され、それを全うすれば定年退職に「立場」が得られる。
前例主義を通すことで思考停止をし、非クリエイティブになった結果として得られるものなのであろう。
非クリエイティブな思考の人たちが音楽サークルに集まったらどんな事になるかはわかりきっている。
彼らは音楽も全て前例主義で考える。新しいことや新鮮味のあることを嫌うので、年を追えば追うほど発想も硬直していく。
私のいた音楽サークル内は教職員公務員の割合が高かった。 故に非クリエイティブな人たちばかりになってしまう傾向があった。
そうなるとますますその発想の硬直に気づきにくい。新たな発想提案にも反応が鈍い。
非常に残念な状況だ。
私はこういう見えない思考習慣に最近まで気付かず、彼らと付き合っていた。
気付かなかった私がバカだったのだ。全く相容れないことが最近になってやっとわかった。
こんな場所に30年近くいた。もう中には入らないが、一時期は想いを寄せたサークルだ。沈みゆく夕陽をじっと見届けようと思う。
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だから「公務員」の生活を私は知らない。 だが「公務員」属性の友人たちの思考や行動パターンは、確かにかなり独特なものであると思う。
しかし職業によって当然に思われているが他の属性の人には全く通じないことに実はあまり気づいていない。
教職員の家庭では年度末は内示にビクビクし、サラリーマンは人事考課にビクビクし、自営業は決算と確定申告にビクビクする。
同じ年度末のビクビクでも内容が明確に異なる。この差異はもっと意識されて良いものだと思う。
憶測だが、感受性もこの属性にかなり影響されているのではなかろうか。
教員公務員が多い音楽サークルに私は長らくいたので断絶ぶりが手に取るようにわかる。
しかしもう眠いし今日は具体的に書くのはやめておこう。
【日記】2019年1月23日 音源探求について〜「好き」が最強〜
先日から作りつづけている純セレブスピーカーで音楽を聴いている。本当に気持ちのよい音が出る。
音楽がますます好きになって困るよ(笑)。
はんだ付けして箱に入れれば、すぐ完成してしまう高音質もの。
純セレブスピーカーは以下を参考に。
昨年の引っ越し後、随分オーディオの試行錯誤をしてきた。
15年間使ってきたバックロードホーンスピーカーが響きすぎなのか、全然いい音がしなくなったのでついに処分した。
おそらく住宅が木造から鉄骨になり、音の響きが変わってしまったのだろうと思う。
とにかく音楽が思ったように聴けないとイラつく性分なので、たちが悪い。
なんとか活用を試みたがサイズの大きさもあり、純セレブスピーカーとお役目交代と相成った。
今日はひたすらCDのリッピング作業と鑑賞。
スピーカーが変わると以前からの愛聴音源を聴き直す(オーディオあるあるだ)ことになる。
これが無意味に楽しい。ここ数日間こればかり。
純セレブスピーカーは素晴らしすぎてヤバイ。
思えば中高生時代から音楽とともにオーディオに興味を持ち始め、今に至る。
今も昔も金はないので、オーディオにはさほどお金をかけられない。しかし音楽はたくさん聴きたいので今でも毎日朝から寝る前まで音楽を聴いている。
外出もするし歌うし読書も会話もするので、意外と時間はない。時間はないくせに膨大な音源を聴き続けてたい欲求まみれだ。
これは自慢にもならないが、誇るべきことである。
結果として音楽と読書から世の中を見ることができるようになっているということ。
一方で周囲との差にも直面する。
もう20年前のことだから書いてもいいか。
当時合唱団にいたときのこと。
モーツァルトのミサ曲ハ短調(いわゆる大ミサという曲だ)を演奏するためにプロオーケストラから、当時いた合唱団に出演オファーが来た。
私はたその曲をしっかり聴いたことがなかったのでCDをタワーレコードにすぐに買いに行った。(まだYouTubeも今ほどでないし、ネット通販も盛んでない頃だ)
最初に買ったのはフランツ・ウェルザーメスト指揮のCDだった。そこそこ良い演奏だと思ったが、そこはわたしのこと。
1つの演奏では納得しないので、数枚追加で買った。マリナーの新旧、バーンスタイン、カラヤン、ヘレヴェッへ、パロット、ノイマンなど‥結局かなり聴き込んでしまった。
なにも考えずに、練習時に団の友人と情報交換しようと思ってCDを数枚持っていった。
そこで
「じゅん、それだけ持っているなら1枚貸して」
「おすすめのを貸してください」
こんな人が数人出てきた。
まあ貸してもいいけど。減るもんじゃないし、いいけど。
しかし、解せない…。(↑不良のカツアゲのような文言だし)
彼らは一向に自分の身銭は切ろうとしない。彼らは自分から探して買おうとしない。
どういうわけだか、彼らはすべて名だたる大企業の会社員たちばかりだ。おそらく収入はわたしの倍くらいあったのではないか(今なら10倍くらいになっているだろう)。
だからお金がないのではない。
単に「音楽を積極的に取り込もうという気がない」だけなのだ。今でいうところの情報弱者か。
人から手軽に借りたり、情報を得て済まそうとしている。
更にわたしから言わせれば、彼らは本当の音楽好きではない。
別の面から見れば、好きでもないことを無自覚に好きだと思いこんでいるので気の毒だと言えるかもしれない。
しかし他人にフリーライドしようとするメンタリティが私は気に入らない。私は可能な限りギブするのは厭わないが、相手がフリーライドのクレクレだと正直げんなりだ。
そういう人は基本的に無自覚に思考が受け身なので、音楽を積極的に聴かない。だからどんなにこちらがいい演奏を紹介してもほぼ定着しない。
この虚しい状況はどうやら今も変わらず進行中のようである。
だから、最近はそういう人たちと話しているだけでもそこの浅さが見えてしまう。単に演奏が上手い、歌が上手い、楽譜が読める、というスキルの問題ではない。
感じるのは「純粋に音楽が好き」というシンプルなことだけである。
好きと感じることは人それぞれでいい。好きなことをその人なりにただ続ければいい。そういう好きなことに正直に向き合っている人は、話も姿も豊かである。これは本当にそう感じる。
好きなことをやっている人とそうでない人。この差は時間とともに歴然としてくる。
人の人生はいろいろだから、私は強制はしない。ススメである。
好きなことを自分の軸でやり、そこから世界を見ることをおすすめする。
私も振り返ると音楽と読書を好きでやってきただけ。なんの強制もされていない。
強制されてやったことは基本的に定着しないし忘れる。当たり前だ。
(ただし、好きを仕事に、というのは私は懐疑的だ。仕事自体にそれほど重要な意味を感じないからである。好きなことをやるために、仕方なく仕事をやるというならまあ共感はするが。)
閑話休題。
私は音楽がただ好きなだけだ。これは一点の曇りもない。
一日音楽に浸っていると疲れるかもしれないが、嫌ではない。
苦役でも勉強でもなく、単に楽しい。
好きなことはやる。嫌なことは基本的にしない。
これだけである。
好きなことは正直にどこかで表現できるところがあるといいと思う。
誰とも比べられない「好き」が最強であると思う。
【音楽】2019年1月 行くコンサート
【日記】2019年1月3日 今年やろうと思うこと。
今年やろうと思うこと。
地味ですね!
すべて今までやってきたことであり、もっと進めたいと思う。
派手なものは幾分疲れるので悪くはない。
小池龍之介さんの本を読んでいる。
感覚や魂が研ぎ澄まされていくとはこういうことなのか、とヒントを得られることが多い。
今年もよろしく。
Merry Christmas Concert 名古屋市立昭和橋中学校合唱部による合唱
Merry Christmas Concert
名古屋市立昭和橋中学校合唱部による合唱
2018年12月23日【日】
名古屋市民ギャラリー矢田
指揮・キーボード:見田寛
第 1 部
イタリア 古典歌曲 より
- Amarilli(Giulio Caccini 曲)
- Star vicino (Luigi Mancia ( Salvator Rosa )曲) 独唱:Oさん
- Se tu della mia morte ( Alessandro Scarlatti 曲 )独唱:Hさん
- Caro laccio ( Francesco Gasparini 曲 )
- Lascia chio pianga ( Georg Friedrich Handel 曲 )2曲独唱:Nさん
ローランド 社製 電子 チェンバロ C - 30 を 使用
Agnus Dei = 空海 ・真言・ 絶唱
( 千原英喜 、 虚空蔵菩薩真言 、 光明真言 、 Agnus Dei 詞 / 千原英喜 曲 )
第 2 部
- Hodie christus natus est
- もろびと こぞり て
- 神 の 御子 は
- 荒野 の 果て に
- ジングル ベル
- サンタ が 街 に やってくる
- 赤鼻 の トナカイ
- きよし この 夜
独唱・合唱:名古屋市立昭和橋中学校合唱部
昨年のクリスマス、今年の3月の演奏会と続き、昭和橋中学校の合唱部のクリスマスコンサートを聴きに行きました。
人の声の素晴らしさ
私はプロ・アマ問わず、合唱の演奏会を聴き続けて30年以上になります。
もうこんな抑圧の強い音楽の世界とは距離を置きたいと思いうのですが、それでも声のエネルギーとパワーに抗しきれなくつい聴きに来てしまいます。
なぜこのコンサートに来たのか
この昭和橋中学校の合唱部を指導されている見田先生と私は、以前に同じ合唱団で歌っていた仲間です。
彼の大学の卒業演奏会の時から私は彼の演奏を聴いていました。
特に作曲家ではドビュッシーと鈴木輝昭に情熱を傾けており、中学校教員となってからは合唱部を指導。それにとどまらず演奏会の演目にも工夫と趣向を凝らしています。
今年の3月の演奏会が素晴らしく(特に最後の宮沢賢治の詩に関した曲に非常に感銘を受けた)今回も足を運びました。
今回の選曲は季節柄、後半はクリスマス関係の曲。 個人的には前半のバロックと千原英喜作品に驚きと気づきを得ました。
各曲の感想
ヘンデルの「調子の良い鍛冶屋」はローランドの電子チェンバロで演奏されました。個人的にこの電子チェンバロの音は思いのほか良かった。
ただ、初っ端で弾くのには結構大変な曲だった(笑)。
次は部員の中学生の皆さんによるイタリア古典歌曲集。
イタリア古典歌曲の歌い方聴き方に私はいつも困惑します。
日本で声楽を志す学生はこのイタリア古典歌曲は必ず通る道のようですが、よくよく聴いてみると、モンテヴェルディ、スカルラッティ、カッチーニ‥古典というより時代はバロック期だがや!と思います。
今でもこのイタリア古典歌曲を若い声楽家のコンサートでよく聴きますし、私も高校の部活ですこし歌ったことがあります。
ところが、歌っても聴いても実に面白くない。
判を押したように、まるでシューマンやシューベルトのように歌うのです。これ以外の歌い方はないのだろうか?と思うことしきりです。
もう少し自由な解釈が出てこないのでしょうか。
最近はナクソスミュージックライブラリーやAppleMusicで古楽奏法の音源をたくさん聴くことができます。イタリア古典歌曲(時代はほぼバロックです)は思った以上にもっと軽くて自由な曲だったのです。
個人的なボヤキはこれくらいにしましょう。
さて、今回の演奏の感想です。
3人の歌声は全体に力があり、空間を充分に響かせるものでした。
ストレートな声がとても気持ちよく、持ち声はとても良いと感じました。
AmarilliとStar vicino を歌ったOさんはかなりスッキリした軽やかな歌声でしたし、Se tu della mia morte を歌ったHさんの深い響きと声量には驚きましたし、Caro laccio とLascia chio pianga歌ったNさんの真っ直ぐな声がとても気持ちが良いものでした。
前半の最後に歌われた千原英喜作曲「Agnus Dei = 空海 ・真言・ 絶唱」。
見田先生の音楽に対する情熱あふれる真摯な解説はいつもながら感心します。中学校の先生のままではもったいないよ(笑)。
さて、この曲はキリスト教のラテン語、空海の開いた真言宗のマントラが縦横無尽に歌われました。最大9パートに分かれる曲だそうで、20人ほどの中学生にはさぞ荷が重かろうと余計な心配をしてしまいます。
しかし効果は大変ありました。鈴や拍子木なども入り、矢田ギャラリーが異空間になっていました。いい意味で怪しい感じがとても良かったと思います。(セーラー服ではなく白装束ならばもっとよかったかとw)
周囲の人たちは口々に「あんな声をよく出せるね」「なんかすごかった」という言葉が聴かれました。同行した妻も涙ながらに「よかった」という感想を漏らしていました。
後半はこの時期にありがちな(笑)クリスマスソング。部員二人がMCをしていました。いちいち台本作ってのやり取りが微笑ましかった。全体に歌声が豊かだったのも印象的でした。
演奏は本当に立派でした。中学生の演奏として十二分のクオリティです。
音程の危うい部分はもちろんありましたが、そんな重箱の隅をつつくのはつまらないことです。
少し気になったこと
中学生の演奏を聴く機会が多くないからかもしれませんが、皆さん非常に音楽に対して真面目な姿勢が印象でした。20人足らずでも声量も豊かでした。指導の賜物でもあるのでしょう。
ただ、真面目すぎるゆえなのか、音楽がやや硬直してしまう方向になりがちだったのが気になりました。
若いから力で無理矢理でも声量が出るのでしょうが、その声と音楽にはよりしなやかさと緩さがあるともっと良いと感じました。
自分でも歌いながら思うのですが、あまりに舞台で聴かせる声の出し方を意識してしまうの(遠くに声を飛ばそうとしてしまう)で、どうしても緊張を伴う音楽になりがちです。
そうではなく、もっとその人らしい音楽を近くにいる人と感じる瞬間も大切ではないかと思います。
例えば、たまには床に座して歌うとか、車座で遊びながら歌うとか、日本人が本来やっていた歌うあり方を振り返ってみるのも緩んだ音楽を楽しむことになるかもしれません。
最後に書きたい、非常に残念なこと
私と見田先生のいた合唱団員が誰も聴きに来ていなかったことです。
私達は音楽する仲間同士です。仲間のやっている音楽活動に無関心すぎます。団員が60人もいても誰も聴きに来ていないという無関心ぶりは呆れを通り越して憤りすら感じます。 どうなんですか?
Facebookページをみればイベントに気づくはずですし、知らないとは言わせません。
本当に音楽を愛して、仲間を思っているのか。
仲間がいて合唱ができるのです。その仲間を大切にしない関心を持たないとはのははっきり言って鈍感に過ぎはしませんか。
私は大切な仲間の活動を支持していきたいと思います。
いいことやっているんだから、それをできる限りのことをしたい。
それが私の使命だと思いますし、互いに楽しくやるためには基本的なことだと思います。