【コンサート】 ライブ「おっさん姉妹のおかしなコンサート」(横浜)へ行ってきた
おっさん姉妹のおかしなコンサート〜「おっさん姉妹」がやって来る!〜
2018年12月8日(土)タンゴの家(三田塾ホール)横浜
体調が相変わらず低空飛行。
ずいぶんマシになったけど、右腕の痛みが完全に取れない。治療中なので仕方ないが、からだが痛いと物事に集中できない。読書も集中できないので困ったものだよ。
今回はワークショップとライブコンサートの目的で行きたかったので、多少は無理してでも行く。正直途中で力尽きるかと思ったが、妻のサポートもあってなんとか保った。結構崖っぷちで生きてます(笑)。
今回のコンサートはキーボード奏者の鈴木潤さんと打楽器奏者の片岡祐介さんのピアノデュオ「おっさん姉妹」のコンサート。
YouTubeに動画があったのでここに貼り付けておきます。
マイレゲエという曲。
コンサートでもやりましたが、本当に素敵でした。
名前の由来は「ラベック姉妹」だそうです。中学時代に私はラベック姉妹のポスターを部屋に貼っていました。そもそも「おっさん」が「姉妹」というのが名前破綻している(笑)そこがいい。
片岡さんとはYouTubeライブ動画で何度かチャットでやりとりしたり、Facebookで友達になったりと交流をさせていただいていた。今回やっと生演奏を聴き、ご本人に挨拶できた。
鈴木さんとは交流なく初めてお会いした。京都在住だそうで、少しまえにコスメショップのBGMを作曲して、今回もその曲集の中からも演奏してくれた。ヒゲと帽子が似合う優しい曲をつくる方でした。
実は片岡さんと私は同い年で、同じ時期に名古屋の市立高校に通っていた。
片岡さんは音楽科のある高校で、私は名古屋の端っこの高校で、同じ名古屋でもコンサバ地域か水田地帯かというくらいに地域差がある。(しかし私の高校は空港が最も近い高校として名高いのだよ。自慢です!)
高校当時は私は合唱部でぶいぶい言わせており(嘘です)、片岡さんとは市立高校の音楽祭やイベントでニアミスをしている可能性もある。
さらに片岡さんは名古屋の伝説のホール、スタジオルンデに出演したこともあるそう。
ルンデは私の高校の先輩の勤務先だったし、大学生になってからよくアルバイトさせてもらったので、片岡さんとは遠からぬ縁を感じたりもする。
(わからない人が多い地元ネタを展開してしまってご容赦ください。)
コンサートに先立って、クローズドのワークショップがあった。地元の親子中心の音楽ワークショップで、私達夫婦はゲストという形で参加した。
内容は主に打楽器としての手拍子(ボディパーカッションもふくむ)を使ったゲーム遊びやみんなで歌詞をつくりながら1つ歌を作るというものだった。(ほかハンガーを使った自分にしか聴こえない楽器体験とか、あまりに面白すぎることが多すぎて全て書けない)
こうやって言葉にするとまるで面白く書けないが、本当に面白かった。拍手が楽器というのは理屈では「確かにそうだな」とわかってはいるつもりだったが、実際にやってみると人の手の表現の幅広さと深さは半端ではない。ボディをなめたらあかんよ。
みんなで作曲をするというのも、ものすごく面白かった。ナンセンスな歌詞になりがちだけど、どこか意味深長にも読めるし、その歌詞につける音楽も雰囲気がなんとなく不思議で可笑しい。
話は逸れるが、私の大学生の頃、一般教養の講義で自動作曲法というのがあった。
歌詞はないが、2小節くらいの旋律を適当に6個作って、サイコロを振った目で小節の旋律ができていくというものだった。
私はジョン・ケージの音楽のもとになったチャンスオペレーションぽいし、面白いなと感じたが、音楽科の学生には非常にウケが悪かったのを記憶している。なんでも「こんな機械的にやることなんて音楽じゃない」というのだ。ふーん、そうなのかなあと思っていたけど。
この自動作曲のやり方と、今回のワークショップでの即興的に歌詞と音楽を作るのが少し似ているような気がした。
閑話休題。
ワークショップの後にコンサート。
セットリストを見たものではなく私の適当な記憶で書いているので思い違いがあるかもしれません。ご容赦ください。
最初にお二人のソロで1曲ずつ。片岡さんは林光のピアノ曲集「もどってきた日付」より「ものがたり」という曲を、鈴木さんはご自身のオリジナル曲をそれぞれ演奏した。
本当に面白いなぁと思ったのは、芸風の差。
片岡さんは打楽器奏者というのがよくわかるガシガシ弾く感じ。鈴木さんは鍵盤の流れる感じ。あえて差をつけて演奏しているだろうと思うけど、やはり個性的ですね。
そのあとはデュオで野村誠さんの現代曲や即興性のあるオリジナル曲中心に演奏された。
取り上げるジャンルを有り体に言えばフリージャンル。だからジャンルにこだわるのではなく、根本的に音楽は面白い、楽しくてナンボという選曲と気持ちが伝わってくる。
特に決めごとをあえて作らない、即興性というのをとても大切に演奏しているのがわかり聴いていて精神が開放された気分になった。
ところで、コンサートのはじめに
ちいさな子供達が会場にたくさんいたことをふまえて、片岡さんからこのように言われた。
お子さんが騒いでも叫んでも全く構わないし、他のお客さんも子供の声を騒音として聞かないでほしい。
映画を見ているときの効果音のように聞いていると音楽と馴染んで気にならなくなりますよ
と。
確かに演奏者がこのようにコメントされてコンサートを聴いていると、不思議なことに子供の声も音楽の一部になって気にならなくなる。
この体験はコンサートの大きな発見の一つだった。「子供の出す騒音を大目に見る」という寛容さを喚起させるものではない。私達は「子供の出す声すら音はすべて音楽だ」と感じることができる!と気付かされた。
後半に行くと、5万曲のレパートリーの中から曲を披露するコーナー(?)。どんな曲名でもかならずあるので、リクエストしてほしいということで、思わず私は「とろサーモン」という曲をリクエストしてみた。
すごい曲だった。とろサーモンという曲はこんなに懐かしくてファンキーで抱腹絶倒なものだったのは知らなかった!(笑)
帰宅して娘にその話をしたら、「とろサーモンて芸人コンビだよ…」と言われた。しまった、被ったか?!
それもただ今、絶賛炎上中なんだ。私はテレビを観ないので迂闊であった!!
その後、5万曲のレパートリーから数曲披露される。傑作揃いだったが、2度とリクエストしないでくださいとのこと。要は即興で作っているということではないかと。
そのあと実はほとんど覚えていない。
あまりに面白くて腹を抱えて笑いながら聴いていたので、本当に忘れてしまった。からだも痛いのを忘れて笑うから笑いながらイタタタ…。
今まで音楽を聴いたり自分で演奏したりしてきたが、今回のコンサートは心が開放されて本当に気持ちが良かった。
こういった体験は他にあったっけ?と思い返すと、意外と思い出せない。
これは音楽の力なのだろう。お二人の才能もあると思うが、それと同等かそれ以上に私達ひとりひとりにも「感じる力」があるということだ。
こんなことを書いていると隣で聴いていた妻がこう言いそうだ。
「あなた、ただゲラゲラ笑っていただけじゃないのー。それもこれまでにないくらい笑い転げていたよー。」
確かにそれは否定できない。なんにしても音楽が楽しいということは間違いないのだ。
(終わり)
【日記】2018年12月7日 3日間寝込む。
12月に入り、今年こそ健康に過ごすぞ!と気合を入れるものの、3日間体調が悪く、寝込んでいた。
万難を期してストイックに過ごしていても結局は寝込んで動けなくなるので、もはや計画的人生は無理である。
健常な人には想像できないかもしれないが、今日の1時間後さえも予測できないのが私の人生である。流動的かつ先は見えない。これで10年先を見据えたことを考えろ、と言われても無理な話である。
老齢年金などまるで期待できない。定年退職もない。
でも1、2年前より今年の12月のほうがマシな部分は多い。多少は動けるようになった。眠れるようになった。痩せてからだが軽くなった。そんな喜びである。
「人生」ということばを最近よく使うようになった。フッ日和ったな?と自認している。でも50歳くらいなら、自分のことばかりを追い求めるのではなくて、もう世の中のことやみんなのことを考えてもいいと思う。
もちろ自分の欲を満たすこともやるけど、それだけじゃ、昔見たバブル時代の金満親父の思考だ。あれだけカネカネ言っていた連中はいまでも拝金主義のままなのだろうか。カネもいいけど、ほかに人格や知性を備えないと危険だと思うけどな。
拝金主義の思考になると目の前の人のことが疎かになるし、リアルな人をみても尊重しなくなるかもしれない。
こんな調子なので年末年始の予定も立てない。むしろ予定などいっさいなく、体調だけで日々決めていこうと思う。
だって仕事を行こうとしても体が寝込むんだから、即興で生きるのがわたしにはベターな選択だ。
明日は横浜へ行く。ぷらっとこだまでのグリーン席でライブに参加。本当に楽しみだ。
【読書】死ぬまで読了しない読書が一番好きだ。
2日前に書いた文書でやや書き足らなかった部分をもう少し書いてみる。
昨年1700冊読んで何を得たか、という記事。
今日書きたいのは、
- なぜそんなにたくさんの本を読むのか?
- 本の内容を理解しているのか?
である。
まず、
なぜそんなにたくさんの本を読むのか?
まず、私にとっては全然「たくさん」じゃない。全く少ない。少なすぎる。
古典文学に限っても、源氏物語を原文で全文読んでいない。トルストイ、プルーストやなども未読の山だ。
原文で読まなくとも現代語訳日本語訳で読むつもりはあるが、他の文学作品もまだまだ読みたりない。
哲学書、歴史書、宗教書、社会科学書、自然科学書も未読だらけ。
たとえば、モンテーニュのエセー、道元の正法眼蔵、アーレントの全体主義の起原、サルトルの存在と無、ギボンのローマ帝国衰亡史…
これら世界で読まれている本を私は未読なのである。
なぜ、そこまで読む必要があるのか?
それは私が当然読んでおくのが当然だと思っているからである(今の段階ではこう書くしかない)。
一例だが、私は合唱音楽を音楽活動としてやっている。
私のやっている合唱というものは、根本的基盤にあるのはキリスト教教会音楽であるから、当然聖書は読んでいて当然の感覚でいる。
教会の成り立ち、カトリック・プロテスタントの意味それ以外の宗派や教派への理解、さらに基になったユダヤ教にも突っ込んでいく。現代社会と音楽を考えるなら、芸術と資本主義というトピックも立つ。
さらに突っ込むとキリスト教の理解という上っ面のものではなく、私の心にはキリスト教でいう「信仰」というのはあるのだろうか?日本人のいう「神」と”God”は違うのではないか?
音楽ひとつにおいても様々な理解を促してくれるものである。音楽についてもそれだけの問いが立つ。
もちろん読書しただけでは音楽をすることにはならないが、書物から得られる世界観や知識は必要だ。
例えは音楽だったが、音楽ですらこの大きな世界の中での一存在。
この世界は人類が形成してきた「智」で出来上がっているならば、1人で全て知ろうなんておこがましいってもんかもしれない。しかし、そうであっても私は知りたい。
まあ、そこまで鯱張らずに言っても
「言葉は人や社会を動かす」だ。
私はトピックしか読んでいないが、池上彰氏で以下の著書がある。
『アンネの日記』
『聖書』
『コーラン』
『資本論』
『沈黙の春』
『種の起源』
『雇用 、利子および貨幣の一般理論』
『資本主義と自由』
以上が池上氏の言う「世界を変えた」本である。
私はこの10冊の中で8冊を読んだが、確かにこれらはのちの人たちの心を変え、行動を変えた「言葉」が詰まった本だと言って良いと思う。
これらの本は難しいから読んでいないと言う人でも、今いる社会に様々な影響していることを否定できないと思う。
これらの本がなければ、
キリスト教がなければ良くも悪くも資本主義経済すら発生しなかったかもしれない。
ユダヤ人虐殺行為が明るみに出なかったかもしれない。
環境汚染に対するエコロジーの思想もないかもしれない。
人間は進化成長するという発想もない。
世の中でお金をどう回していけば良いのかという考えすらないかもしれない。
今、当然であると思われている価値観の中にこれらの本の「智」が間違いなく動いている。
読書をすればするほど、これには実感せざるを得ない。
言葉には良くも悪くもパワーがある。言葉の使い方で自分自身へも他人へも何らかの影響をもたらすことは明らかである。
これらの人々を変えた言葉が詰まった本を私が読まない理由はない。
以上が、現状で目一杯、私が書ける「たくさんの本を読む」理由である。
次に
本の内容を理解しているのか?
これは何を以って理解とするのか、読了とするのか?と同義であるとする。
答えは
「理解できるところもあるし、全く理解できないところもある。全部読んでも全く理解できない本もある。」以上
「本の内容を理解しているのか?」と言う問いに対し、逆に私は問いを立てたい。
- 内容を理解したというのはどの時点で言えばいいのか?
- 100%理解したと言えるまでは読んだとは言えないのか?
私は本を読むということについて、こだわりは捨てて行ったほうが、晦渋・複雑な本でも自由に楽に読めますよ、と言っておきたい。
私は本の内容を誰かに伝えねばならないとも思わないし、読書記録を書くべきとも思わないし、100%理解せねばならないとも思わない。
とにかく、全てパーフェクトな世界はどこにもないというのが現実世界だという認識である。
私はたくさんの本を読んできたのだから「他の人より優れている」などと鼻くそほども思わない。
そんな上から目線の考えが芽生えたら、完全なる「老害」である。読書家などと口が裂けても言いたくない。
本を読むとき、
- 最初から一字一句理解しながら読まねばならない。
- 読んだら感想を書かねばならない
- 読んだ内容をまとめ文章を書かねばならない
と、どこで言われのか?
学校じゃないか。
これらの学校で教えられた読書の方法3点には以下の暗黙の前提がある。
- 最初から最後まで読まないと本の内容はわからない(初等教育では音読は一定の効果があるかもしれないが、いつまでも同じ読み方しかしないのは成長を阻む恐れがあることは完全に無視されている)
- 読んだら絶対に理解できる(はずの)題材しか用意しない(理解できない本への向き合い方を無視している)
- 読んだ内容を表現できなければダメ(点数にできなければ学校は評価しようがないので無理にでも書けという嫌がらせ)
これらの暗黙の前提は現実の世界では全てひっくり返る。
- 一字一句読んでいたら一生かかっても限られた知識しか触れられない
- 読んでも絶対に理解できない本(世界観、文化)がある
- 読んだ内容をすぐ表現できなくても、心のどこかに残っていれば、いつかどこかで繋がることもある
- 言葉には現せないものやことはたくさんある
これが現実でしょ。
日本の学校教育では、必ず結果を出すという前提で行われている。
それは日本の学校教育内では動かしがたい現実かもしれない。(戦後教育の狙いをここで問うことはあえて避ける)
しかし、現実社会に出てみれば、全てが不確実で複雑、不条理に満ちて、暴力と権力が横溢しているのではないか。
さらにそこには正解はない。正義すら時代や国で異なる。様々な価値観や視野視座視点を持つと言う認識が必要。
学校で習った通りに勉強ができて高偏差値の大学へ行ったとしても、逆にその刷り込まれた価値観に思考が引っ張られてしまうことも多い。
私がいうまでもなく、それは日本の企業の現状を見ればわかることも多いと思う。
そんな社会を前に学校教育(ここでは読書という点においてのみにする)が何の力になるのであろうか。
ここは私が最も強く問いたいことである!
そこまで突き詰めなくても、
本を読むことさえ、学校教育からの刷り込みで自由にできないなんて、
もったいない!もったいない!もったいない!
読書なんてもっと自由でいいじゃん!
難しい本は読むのやめておこう…はもったいない!
読んでみないとわからない。
読んでみてもわからないかもしれない。でも読んで何かをつかもうとチャレンジしていけばいいじゃないか、と思う。
私も昨年にマルクスの「資本論」、一昨年にアダム・スミスの「国富論」を読んだ。
読んで意味あったの?わかったの?と問われれば、
私は意味はあったと思う。
でも、それは私にとって価値があった経験を得たというだけで他人が同じようになるという保証はない。当たり前だよね。
わかったのか?
もちろん、わからない部分は多かった。でもなるほど、と思うところは数多く出てきた。
とりあえず、それでいいと私は思う。だって何度も読みかえせばいいのだから。
どんなことでもそうだけれど、人は他人の立場に100%立つことはできない。当たり前だ。
それであっても、相手の気持ちや事情を慮ってお互いに助け合うのが社会でのコミュニケーションの望ましいあり方だと考える。
読書でも著者の視点に立って読む姿勢を持つことが大切だと思う。
わからないことがあって当然。それでも繰り返し読むことが私は時と場所を超えた著者とのコミュニケーションだと思う。
これが私の今の心境である。
かしこまって書くならば、
読書で自由を得ることは、社会で自由に生きることを得る「可能性」を掴むことでもあると思う。
もちろん、「絶対大丈夫」「信じていると必ず報われる」という世界は現実ではない。
そういう世界はファンタジーの世界はもちろんあって良いが、それは現実とは異なるものという理解する。(大の大人もこういうファンタジーの世界に生きている人が相当多いので若い人は注意していたほうがいい)
ともあれ、
正解もない、不確実なのが世の中の常なので、
「読書していれば大丈夫」
でもないし
「読書しない奴はダメだ」
でもない。
不確実で、正解がなければ、読書の仕方ですら自分が決めれば良いのだ。
とりあえず、読書に関して言えば上に書いた通り、学校で刷り込まれた方法では明らかに私は不自由だと思っているので、
本を読んでもどこまでもわからないことがある、という前提で、
死ぬまで読み終わらない読書が好きだ。
なんども読んでなんども考え行動することが好きだ。
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この私にとって、わからないことが世界を作り上げている事実。これは動かしがたい。
と書いてきて、何度も読み返す本に出会う機会が必要なのだとつくづく思う。
現状ではかなりテキトーに書いた本も多いので、まずは古典書を読み潰していくのが先決だと私は思っている。
と書いてとりあえず筆を置きたい。
【読書】 フィツジェラルド「グレート・ギャツビー」
バブリーな人生を絵にかいたような物語。底辺には恐慌や西部出身者の思いなどがある。毎晩繰り返される豪奢なパーティー。そしてあっけない結末。人によりけりだろうが、こういう人生もなかなか味わえないな。日本もバブルの時はこういう人は結構いた…。
まあ、単なる成金青年の凋落を描いたものではないんだけれども、表面上はそう読める。ギャッツビーとニックのやり取りから徐々に恋愛のもつれそれが、最終的な悲劇に向かっていく。
音楽だと苦悩から歓喜へ、というドラマツルギーに評価が行きがちだが、なぜか文学って栄華から凋落没落という崩壊へのベクトルの方が多い気がする。
どっちがいいかという話ではないが、より文学の方が人間のリアリズムに近いってことなのか。
悲劇もいいけれど、もう少し希望が持てる作品も読まないといかんかな。
ちなみにグレート・ギャッツビーの有名な翻訳では村上春樹のものがある。
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いよいよ第4部へ突入 カラマーゾフの兄弟
▶今日は朝から蒸し暑い。雨上がりのむっとした感じ。冬なのに蒸し暑い感じが不快。
▶オフィス内も暖房だから暑くて苦しくて仕方がなかった。そもそもじっとしているのが苦手なのかもしれない。
▶さきほど、カラマーゾフの兄弟第3部読了。いよいよ問題の事件が発生し、ミーチャが容疑者として逮捕される。ここのくだりはスピード感があり、ミーチャの心情の吐露が無茶苦茶だがどんどん惹き付けられるところ。いよいよ第4部に行く。
▶巻末の訳者亀山氏の読書ガイドが小説の背景や登場する名前や地名などが意味、暗示するものを解説してくれているので、作品への理解が深まる。
今夜は音楽もロシア(というよりソ連だが)ものでショスタコーヴィチの交響曲第5番、6番、第7番「レニングラード」をマリス・ヤンソンス指揮の全集より。
Shostakovich Complete Symphonies
- アーティスト: London Philharmonic Orchestra,Vienna Philharmonic Orchestra,Dmitry Shostakovich,Mariss Jansons,Berlin Philharmonic Orchestra,Philadelphia Orchestra,Bavarian Radio Symphony Orchestra,Oslo Philharmonic Orchestra,St Petersburg Philharmonic Orchestra,Pittsburgh Symphony Orchestra,Larissa Gogolewskaja,Bavarian Radio Male Chorus,Bavarian Radio Chorus
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