音を読む 本を聴く

イトウの音と本の綴織

【報告】市内に引っ越しただけなのに気づいた、とんでもない格差。

引っ越しました!

家族内では昨年末から2018年は引っ越す!と言い続けてきたが、資金の当てはなかったにもかかわらず、意外とすんなり実現した。(引っ越し資金は妻より。感謝です!)

引っ越し自体は5月の初旬に済ませて、6月に入り、ネット回線の整備や生活の落ち着きがやっと出てきた。

季節柄体調不良もあって、まだまだの面もありつつ、しかし…

 

驚くほどの差がありすぎ!

私の住む市内で引っ越したが、利便性が格段に違う。

やはり住環境は重要であると感じる。

 

引っ越し前の住まいの問題点

交通アクセスの問題

私鉄鉄道駅まで20分、市バスバス停まで15分。

通勤時以外は電車もバスも1時間に3本から4本程度と待ち時間が長く、移動時間も長い。かつ帰宅時に家までの夜道は街灯も少ない。

 

住環境の問題

スーパーマーケットは歩いて15分くらいのところにあるが、工場地帯でもあり騒音やトラックなどの出入りが多い。(特に騒音は以前から問題にしており、再三の市への騒音対策を願い出ていた)

 

道路設備の問題

歩道も整備されていないところが多い中、歩いだけでも自動車との接近ストレスを感じていた。道路の整備状態も悪く、雨の日は歩道を歩いていてもダンプカーに水をかけられたことも何度かあった。

 

自動車の依存度が高すぎる

大小医療機関も近くにはあまりなく、突発的な対応に不安もあった。必然的に自動車を手放せない生活になっていた。

スーパー、ドラッグストアなど、生活インフラに欠かせないものを買う店も、自動車アクセスを前提としているところが多い。

また、店舗の改廃が多く、近所の店舗が潰れた場合、異なる遠い店舗まで足を伸ばさねばならいリスクが高く、高齢になった時も自動車に依存する生活が予想された。

 

引っ越し後の住まい

交通アクセス

地下鉄から10分。路線が2本。ほとんど待ち時間なく地下鉄に乗れる。

住環境

古い街だが完全に住宅地である。

人が日常生活する街であるので、歩道が当たり前だがちゃんとある。歩道がないのは狭い路地だが、対クルマのストレスは少なく感じる。(余談だが高級車所持の宅多い。)

スーパーは3店舗、コンビニ・ドラッグストアは4、5店が徒歩10分以内にあり。自動車がなくても仕事帰りにも寄っていけるので、衣食住の不安はほとんどなくなった。

今回の引っ越しでの大きな決断として、

自動車を完全に手放す。

住宅地として人気があるため、家賃などが相応にかかる。

自動車を手放した。リース車両であったので、違約金がかかったが、それは8ヶ月で回収できると判断したので、リースは解約。

これで駐車場を借りずに済むし、自動車保険料もリース料も不要になるため、それを今後は家賃に充てることとして費用的には工面できるであろうとの見通しを持った。

 

引っ越して良かったこと

家族の通勤通学のアクセス時間が半減し、家にいる時間が増えた。

仕事時だけではなく、休日にも気軽に徒歩で外出して、ゆっくりと過ごせるようになった。また市内中心街へ行くことも体力的精神的負担は軽くなった。

 

引っ越して悪かったこと

基本的には今のところない。

織り込み済みだったが、坂が多く徒歩にはややキツイ。

ゆえに大きな買い物が少し大変。5キロのコメを買うときはリュックサックを背負って買いに行く。

とはいえ、このくらいの10分くらいの歩きができるくらいの体力はつけておいたほうが良いので長く考えればメリットとして考えられる。

住居の築年数が高く、設備もそれなり。家賃が周囲の住宅よりも安かったので、納得はできる。

 

住環境を変えるということで得たメリットは大きい

というわけで圧倒的に住みやすくなったし、落ち着いて生活ができるようになった。

住み替えて実感するのが、住環境は本当に大切であるということ。

これは同じ市内でも気づかない格差だった。

 

定住にこだわらず、今後も定期的に住まいは見直して、自分たちの生活を最適化していきたい。

 

 

 

【活動調整】ブログとFacebookとnoteの位置付け

Facebookを中心に書いたり、ライブ配信をしていますが、記事や考えていることはnoteをメインでやろうかと思っています。

ブログはFacebookやnoteのまとめや紹介という位置付けにして行きます。

ブログもソコソコにPVはあるのですが、もう少し双方向性を重視するにはSNSとクリエーターの人とのやりとりができた方がいいと思います。

 

これだけ様々なネット上のサービスやツールがあると、よりクオリティの高い内容を書いている人、前向きに社会に対峙している人にアクセスしたくなってきました。

 

私自身も社会性のある活動をしていっているので、あまり匿名性の強いサービスを使う気にはなれなくなっています。

というわけで、ブログは活動報告程度になると思います。

 

 

【読書】死ぬまで読了しない読書が一番好きだ。

2日前に書いた文書でやや書き足らなかった部分をもう少し書いてみる。

 

jsbgm1860.hatenablog.jp

 昨年1700冊読んで何を得たか、という記事。

 

今日書きたいのは、

  • なぜそんなにたくさんの本を読むのか?
  • 本の内容を理解しているのか?

である。

 

まず、

なぜそんなにたくさんの本を読むのか?

まず、私にとっては全然「たくさん」じゃない。全く少ない。少なすぎる。

古典文学に限っても、源氏物語を原文で全文読んでいない。トルストイプルーストやなども未読の山だ。

原文で読まなくとも現代語訳日本語訳で読むつもりはあるが、他の文学作品もまだまだ読みたりない。

哲学書、歴史書、宗教書、社会科学書、自然科学書も未読だらけ。

たとえば、モンテーニュのエセー、道元正法眼蔵アーレント全体主義の起原、サルトル存在と無、ギボンのローマ帝国衰亡史…

これら世界で読まれている本を私は未読なのである。

なぜ、そこまで読む必要があるのか?

それは私が当然読んでおくのが当然だと思っているからである(今の段階ではこう書くしかない)。

 

一例だが、私は合唱音楽を音楽活動としてやっている。

私のやっている合唱というものは、根本的基盤にあるのはキリスト教教会音楽であるから、当然聖書は読んでいて当然の感覚でいる。

教会の成り立ち、カトリックプロテスタントの意味それ以外の宗派や教派への理解、さらに基になったユダヤ教にも突っ込んでいく。現代社会と音楽を考えるなら、芸術と資本主義というトピックも立つ。

さらに突っ込むとキリスト教の理解という上っ面のものではなく、私の心にはキリスト教でいう「信仰」というのはあるのだろうか?日本人のいう「神」と”God”は違うのではないか?

音楽ひとつにおいても様々な理解を促してくれるものである。音楽についてもそれだけの問いが立つ。

もちろん読書しただけでは音楽をすることにはならないが、書物から得られる世界観や知識は必要だ。

例えは音楽だったが、音楽ですらこの大きな世界の中での一存在。

この世界は人類が形成してきた「智」で出来上がっているならば、1人で全て知ろうなんておこがましいってもんかもしれない。しかし、そうであっても私は知りたい。

 

まあ、そこまで鯱張らずに言っても

言葉は人や社会を動かす」だ。

 

私はトピックしか読んでいないが、池上彰氏で以下の著書がある。

 

世界を変えた10冊の本 (文春文庫)

世界を変えた10冊の本 (文春文庫)

 

 

アンネの日記

『聖書』

コーラン

プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神

資本論

イスラーム原理主義の「道しるべ 」』

沈黙の春

種の起源

『雇用 、利子および貨幣の一般理論』

『資本主義と自由』 

 

以上が池上氏の言う「世界を変えた」本である。

私はこの10冊の中で8冊を読んだが、確かにこれらはのちの人たちの心を変え、行動を変えた「言葉」が詰まった本だと言って良いと思う。

これらの本は難しいから読んでいないと言う人でも、今いる社会に様々な影響していることを否定できないと思う。

 

これらの本がなければ、

キリスト教がなければ良くも悪くも資本主義経済すら発生しなかったかもしれない。

ユダヤ人虐殺行為が明るみに出なかったかもしれない。

環境汚染に対するエコロジーの思想もないかもしれない。

人間は進化成長するという発想もない。

資本主義経済を無防備のまま受け入れているかもしれない。

世の中でお金をどう回していけば良いのかという考えすらないかもしれない。

 

今、当然であると思われている価値観の中にこれらの本の「智」が間違いなく動いている。

読書をすればするほど、これには実感せざるを得ない。

 

言葉には良くも悪くもパワーがある。言葉の使い方で自分自身へも他人へも何らかの影響をもたらすことは明らかである。

これらの人々を変えた言葉が詰まった本を私が読まない理由はない。

 

以上が、現状で目一杯、私が書ける「たくさんの本を読む」理由である。

 

次に

本の内容を理解しているのか?

これは何を以って理解とするのか、読了とするのか?と同義であるとする。

答えは

「理解できるところもあるし、全く理解できないところもある。全部読んでも全く理解できない本もある。」以上

 

「本の内容を理解しているのか?」と言う問いに対し、逆に私は問いを立てたい。

  • 内容を理解したというのはどの時点で言えばいいのか?
  • 100%理解したと言えるまでは読んだとは言えないのか?

 

私は本を読むということについて、こだわりは捨てて行ったほうが、晦渋・複雑な本でも自由に楽に読めますよ、と言っておきたい。

 

私は本の内容を誰かに伝えねばならないとも思わないし、読書記録を書くべきとも思わないし、100%理解せねばならないとも思わない。

とにかく、全てパーフェクトな世界はどこにもないというのが現実世界だという認識である。

私はたくさんの本を読んできたのだから「他の人より優れている」などと鼻くそほども思わない。

そんな上から目線の考えが芽生えたら、完全なる「老害」である。読書家などと口が裂けても言いたくない。

 

本を読むとき、

  • 最初から一字一句理解しながら読まねばならない。
  • 読んだら感想を書かねばならない
  • 読んだ内容をまとめ文章を書かねばならない

と、どこで言われのか?

 

学校じゃないか。

 

これらの学校で教えられた読書の方法3点には以下の暗黙の前提がある。

  • 最初から最後まで読まないと本の内容はわからない(初等教育では音読は一定の効果があるかもしれないが、いつまでも同じ読み方しかしないのは成長を阻む恐れがあることは完全に無視されている)
  • 読んだら絶対に理解できる(はずの)題材しか用意しない(理解できない本への向き合い方を無視している)
  • 読んだ内容を表現できなければダメ(点数にできなければ学校は評価しようがないので無理にでも書けという嫌がらせ)

 

これらの暗黙の前提は現実の世界では全てひっくり返る。

  • 一字一句読んでいたら一生かかっても限られた知識しか触れられない
  • 読んでも絶対に理解できない本(世界観、文化)がある
  • 読んだ内容をすぐ表現できなくても、心のどこかに残っていれば、いつかどこかで繋がることもある
  • 言葉には現せないものやことはたくさんある

これが現実でしょ。

 

本の学校教育では、必ず結果を出すという前提で行われている。

それは日本の学校教育内では動かしがたい現実かもしれない。(戦後教育の狙いをここで問うことはあえて避ける)

 

しかし、現実社会に出てみれば、全てが不確実で複雑、不条理に満ちて、暴力と権力が横溢しているのではないか。

さらにそこには正解はない。正義すら時代や国で異なる。様々な価値観や視野視座視点を持つと言う認識が必要。

 

学校で習った通りに勉強ができて高偏差値の大学へ行ったとしても、逆にその刷り込まれた価値観に思考が引っ張られてしまうことも多い。

私がいうまでもなく、それは日本の企業の現状を見ればわかることも多いと思う。

 

そんな社会を前に学校教育(ここでは読書という点においてのみにする)が何の力になるのであろうか。

ここは私が最も強く問いたいことである!

 

そこまで突き詰めなくても、

本を読むことさえ、学校教育からの刷り込みで自由にできないなんて、

 

もったいない!もったいない!もったいない!

 

読書なんてもっと自由でいいじゃん!

 

難しい本は読むのやめておこう…はもったいない!

読んでみないとわからない。

読んでみてもわからないかもしれない。でも読んで何かをつかもうとチャレンジしていけばいいじゃないか、と思う。

 

私も昨年にマルクスの「資本論」、一昨年にアダム・スミスの「国富論」を読んだ。

読んで意味あったの?わかったの?と問われれば、

私は意味はあったと思う。

でも、それは私にとって価値があった経験を得たというだけで他人が同じようになるという保証はない。当たり前だよね。

わかったのか?

もちろん、わからない部分は多かった。でもなるほど、と思うところは数多く出てきた。

 

とりあえず、それでいいと私は思う。だって何度も読みかえせばいいのだから。

どんなことでもそうだけれど、人は他人の立場に100%立つことはできない。当たり前だ。

それであっても、相手の気持ちや事情を慮ってお互いに助け合うのが社会でのコミュニケーションの望ましいあり方だと考える。

 

読書でも著者の視点に立って読む姿勢を持つことが大切だと思う。

わからないことがあって当然。それでも繰り返し読むことが私は時と場所を超えた著者とのコミュニケーションだと思う。

これが私の今の心境である。

 

 

かしこまって書くならば、

読書で自由を得ることは、社会で自由に生きることを得る「可能性」を掴むことでもあると思う。

 

もちろん、「絶対大丈夫」「信じていると必ず報われる」という世界は現実ではない。

そういう世界はファンタジーの世界はもちろんあって良いが、それは現実とは異なるものという理解する。(大の大人もこういうファンタジーの世界に生きている人が相当多いので若い人は注意していたほうがいい)

 

ともあれ、

正解もない、不確実なのが世の中の常なので、

「読書していれば大丈夫」

でもないし

「読書しない奴はダメだ」

でもない。

 

 

不確実で、正解がなければ、読書の仕方ですら自分が決めれば良いのだ。

 

とりあえず、読書に関して言えば上に書いた通り、学校で刷り込まれた方法では明らかに私は不自由だと思っているので、

本を読んでもどこまでもわからないことがある、という前提で、

死ぬまで読み終わらない読書が好きだ。

なんども読んでなんども考え行動することが好きだ。

 

 

ウィーナー サイバネティックス――動物と機械における制御と通信 (岩波文庫)

ウィーナー サイバネティックス――動物と機械における制御と通信 (岩波文庫)

 

 この私にとって、わからないことが世界を作り上げている事実。これは動かしがたい。

 

と書いてきて、何度も読み返す本に出会う機会が必要なのだとつくづく思う。

現状ではかなりテキトーに書いた本も多いので、まずは古典書を読み潰していくのが先決だと私は思っている。

 

と書いてとりあえず筆を置きたい。

 

【読書】年間1700冊以上読書して何を得たのか?

読書メーターで昨年読んだ本は以下。内容をリンクさせると膨大になるので、事実を挙げておく。

2017年の読書メーター
読んだ本の数:1708
読んだページ数:481548
ナイス数:24253 

 

bookmeter.com

 

私の読書のスタンスは、10代の頃から実はあまり変わっていない。

本を読むということは図鑑や学研マンガを読むことから始まり、年を経ることに幅広く深くなっている。正常進化だ。

 

で、結果1年間で何を得たのか?

 

本を読んでどんなに感動しても、

行動しなければ自己変革もないし、

社会をよりよく変えることなど絶対に出来ない

という身も蓋もない事実だったのである。

 

 

私が20代の頃、もっとも仕事と趣味に無茶苦茶し過ぎたことで、体と精神にダメージを得た。おかげで仕事を1年弱休職せざるをえなくなり、結果としては退職することになった。

この時に相当苛烈な体験をして、死すらも考える日もあったことを告白せねばなるまい。

でも現時点でこうして生きている。十分にサバイバーである。

 

さて、20代から30代の読書は成果即効性を求める読書であったことを正直に書いておく。自己啓発系の本やプログラムにハマってしまい、知らないうちにオカルト的な考えを持っていたのだ。

所謂「願えば叶う」「引き寄せの法則」のようなものである。

確かにこれらの言葉は決して非合理的ではない。しかし、本質を私は見誤っていたのである。

願っていても、自分が行動しなければ、現実は変わらない。

同じ考えの物やことに引き寄せられても、お金が寄ってくるわけではない。

今思えば当たり前すぎる事実なのだ(笑)。

 

新卒で就職した職場を10年で事実上、病気退職した時、全く生きる軸を見失っていた。

それを埋め合わせるように、所謂「感謝の言葉を1000回毎日唱えなさい」「ついてるを言い続けなさい」とか書いてある本を正直に実践した。

今考えると、あんなに必死になって毎日「ありがとう、ありがとう、ありがとう…」と言い続けていたのか、まさに「溺れる者は藁をも摑む」状態であった。

10年くらい前に流行ったカツマーやライフハック本もかなり一生懸命読んで実践した。やたら資格や収入に繋がる勉強をするという物だったが、そのノウハウにも違和感を感じていた。(この当時勝間さんはパナソニックレッツノートをスタバで使って仕事をするノマドスタイルを提唱していて、リアルに仕事帰りにスタバに寄るとまさにレッツノートを使っている方をよくお見かけしたが…。)

 

それらの自己啓発本オカルト本はとうの昔にブックオフに売却して今手元にはない。

最近、当時読んでいた本をブックオフなんかで読み返してみた。

「単なる流行本で、数年でクズと化す」という事実を確認してしまった。

 

つくづく、読書することは必要ではあるけれど、読書しているからといって全知全能になれるわけでもないのに、ついそう思ってしまう陥穽があるのも現実なのだ。

どれだけ本を読んでも人は世界を知り得ることはできない。読めば読むほど、多様で複雑な世界を生きている自分のちっぽけさを知るだけである(でもそのちっぽけさが人間の価値なのだとも思う)

なのに、私は数年で陳腐化するような本を、20代から30代にかけて必死で毎日読み続けていたわけだ。

こんなんで社会的構造や現実を知り、それを応用実践できるはずがない。

 

今月も今の時点で200冊近く読んでいるが、新刊本は極力読んでいない。

申し訳ないが新作小説を読むことも意識的に外している。

自己啓発本もほとんど読まない。というか、それ系の本は基本的に過去の古典本の焼き直しなので、立ち読みで終わってしまう。

有限な自分の時間を陳腐なストーリーで満たしていたら命がいくつあってもたりない。(と言いつつ、たまにラノベを読んで、やっちまった!と思うこともあるが)

 

現在は基本的に古典書を極力読んでいる。古典でもまだまだ全然読みたりない。おそらく古典を読み、考え、実践するだけで、私の生涯は終わるのではないかと思う。

少なくとも読書に関しては、古典9割で残り1割は目利きで良書をピンポイントで狙って、豊かな人生を送ることに注力しようと思う。

 

そして、その豊かさとは何か?

それは自分自身の本音に向き合うほかない。

それは正解はない。

世界は複雑だから。

単純な世界に生きようと思ったらファンタジーに行け。

でもファンタジーだけで生き続けることは楽しいのだろうか???