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イトウの音と本の綴織

【音楽】【オーディオ】純セレブスピーカーの作成報告

純セレブスピーカーの近況報告

聴いているシステム

ONKYOのレシーバーアンプ(右)。レストアした中古品をメルカリで6千円ほどで購入。

Pioneerのネットワークオーディオプレーヤー(NAP)。

新品を昨年ウッカリ買った。3万円(私には高価すぎる…)

純セレブスピーカー。スピーカーのユニットはダイソー製を分解し使用。

箱は友人の紙器会社商品の規格外品(?)を譲ってもらった。

他のシステムでも聴くが、全てスピーカーは純セレブ化している。

CDはONKYOのレシーバーで再生する。

PC音源やAppleMusic、ネットラジオはPioneerのNAP。ここから上記ONKYOレシーバにAUX入力して音を出している。

システムの価格はNAP含めて計3万6千円。NAPは完全に無視するなら6千円。

音質

以前からダイソースピーカーのユニットで試作していたが、自分がこれ!という音にならず苛ついていた。

たまたま、紙器会社の友人に頼んでいたいくつかの箱を試していたところ、和菓子の箱から素晴らしい音が出た。

以前、純セレブスピーカーの発案者、片岡祐介さんが「和菓子の箱がいい音がする」と言われていたことを思い出した。

この箱は密度が高く、硬めのボール紙の材質が良いのかもしれない。

このスピーカーの特徴

  • 音の反応がよい。
  • 音の離れが良い。
  • 高音がめちゃくちゃキレイ。
  • 低音もバランス良く鳴る。
  • SP録音やモノラル録音の音が聴き違えるくらい魅力的。
  • EDMや電子音が多い音楽は時にキツく聴こえる。

いいところが多いが、すこし気になる部分もあるのは確かだ。

1961年録音のビブラフォンが聴き惚れるほど美しいと感じるときもあれば、今年のJポップでもスカスカで聴くに耐えないものになったり。

クラシックの録音でも差が明確にある。オーケストラの録音は基本的にはモヤつくので魅力はさほど感じないが、1960年前後のマーキュリー・リヴィングプレゼンスの録音やRCAのフリッツ・ライナーの録音などは分厚いホットな音で聴けた。

民族音楽や現代音楽、中世ルネサンス期の合唱音楽もほぼすべてが素晴らしい。

いずれにせよ、ジャンル関係なく録音の差がハッキリすることは確か。

純セレブスピーカーは本当に素晴らしい。まだ全然本気にしてくれない人が多いけど!!

純セレブスピーカーを知りたい方はこちら。 純セレブ堂.

jun-serebu.net

【音楽】日本アマチュア合唱の衰退〜合唱人はラップ聴け〜

世の中は紛れもなく大変化している。5年前の社会とは今は違うし、1年前とも違う。 社会構造の変化だけではなく、人の認識も変化している。 問題は変化を認識している人と、全く認識していない人の間の分断だ。

年齢が高くなれば変化を嫌う傾向は昔からある。しかし年齢だけではなく、思考の保守化・固定化が非常に気になるようになった。

柔軟に対応する人も多い半面、従来の考えに固執する人がいることが明確になったような気がする。

自分がどう思うか?感じるか?から。

先日CDを聴いていた。スウェーデン男声合唱団オルフェイドレンガルだ。

youtu.be

youtu.be


Orphei Drängar 合唱のためのコンポジション第3番〜Ⅰ. 艫

私は約30年間日本の合唱に触れてきた。いつも他国の歌・合唱音楽を聴くにつけて、日本のそれと根本的に何かが違うと考え続けてきた。

結論からすると

他国は個人の表現ありき

日本は全体の表現ありき

他国とはかなり粗い比較だが、少なくとも日本は個人の感覚や表現は全くと言っていいほど尊重されない。

私は高校の部活動から合唱音楽をやってきた。 そこにはなにがあったのか。 一つの正しい発声や音程に合わせることが音楽。 つまり、個人ありきではなく、同質性が音楽の前提なのだ。異質は認めず排除される。

個人の発声や感じていることはどうでもよい。それを示しても尊重されることなく、考えを示しても無視されたりバカにされて終わる。

さすがにそんな全体ありきの音楽表現なんてアウトオブデイトだろう?と思うかもしれない。

私もそう思っていた。しかし依然として全体ありきの音楽を行っているのが日本のアマチュア合唱界の現実のようだ。少なくとも昨年私が在籍した合唱団のあり方はそうだった。

もう全体や立場ありきの発想はやめよう

合唱という音楽形態は全体性が強く出がちだ。 個人が蔑ろになる可能性は強くなる。 しかしすでに現代はインターネットにより、個人がどう感じるか、どう行動するか、がはっきり示すことが出来る時代だ。 ならば個人の表現をはっきり持つことが重要になる。

もともと音楽は個別ものであり、その個人の主張が集まった集団ならば熱量は高くなると私は考える。

しかし個々人の主張がなく、全体ありきの活動を続ける人が多いのであれば、必然的に集団の熱量は低くなる。

つまり、個人の表現が蔑ろにされれば集団の熱量は低くなり、合唱団の衰退になると私は考える。

個人の表現が尊重されていない日本の合唱

日本の合唱は正しい発声や正しいハーモニーに「矯正」することが最初にある。

もともとの個人の声のあり方や音楽の感覚より、「まず正しい声づくり」や「正しい音感育成」なのだ。

ここでは自由さや感じる楽しさは蔑ろにされる。

そもそも若い人が自分の表現が尊重されていない音楽に進んで入るとは思えない。

日本の合唱は間違いなく衰退へ

先月、私は娘と東京下北沢にラップバトルを見に行ってきた。 非常に熱量の高いライブだった。そこには積極的に音楽に参加している若者がたくさんいた。

あの熱量はラッパー個人のガチの表現があるから成り立つものでり、 個々の表現に魅力があるのだ。

それは上手い下手という「他者や全体としての正しさ」ではない。

自分とはなにか?表現したいことはなにか?という「個人的なリアルの表現」である。

そこにみんなは魅了されていると私は感じた。

合唱人はラップバトルを見ろ

ラップバトルを見るにつけ、これは絶対に合唱はこれには勝てないと思った。 個々人の自由な考えが尊重されない場所が魅力的だとは私は考えない。

今の日本の合唱は 「みんなで同じことをやる」なのだ。

この価値観が良しとされるのは学校だけである。 これを引きずり、当たり前だと思っている人も多いようだ。

だが、そんな価値観を支持できない人が多くなってきた。

なぜなら人間は自由を求めるから。 より自由な表現の場に魅力を感じるはずだと私は思う。

ゆえに、個人表現を蔑ろにし続けるならば日本の合唱は必ず衰退する。 みんなで同じことをするのに喜びを感じる前に個人が喜びを感じることが大切であるし、それがはっきりしてきた。

日本の合唱が衰退しないための方策

それには、どんな表現であれ個人の表現は尊重する姿勢を貫くことであると私は思う。

発声方法を一方的に押し付けたり誘導したりしない。 音程が悪いと言って強制的に正そうとしない。 指導者の意図通りにいかなくてもいい。

「そんなことをしたらぐちゃぐちゃになるではないか?」 「音楽が成り立たなくなるではないか?」

そういう意見は見当外れだ。

個人が表現している音楽を他人が勝手な意図で誘導しようとすること自体が傲慢な行為ではなかろうか。

統率もなくていい。カオスも出来ていい。主張をしていく中で共通する音楽表現が出てくればいいのである。

別にカオスはカオスで愉しめばいいのだし。

え?こんなの理想論だって?

そうだろうか。

この基本的な発想から逃げているから衰退しているのだ。

自由な表現が出来ないところに多くの人は集まらない。

ただそれだけなのだ。

合唱人はラップを聴いて何かを感じたほうがいい。

【日記】2019年4月20日 音楽は生きている

今週1週間仕事を休んだ。 かなり体調が悪かった。

痺れと痛みが同時に来る。もうすこしなんとかならないかと思い、漢方治療に励んでいるが、狙ったとおりに行かない。

2年前よりは身体が動くようになったが、熱や痺れが出るようになってそれはそれで生活の困難さが伴う。

今週は指や腕に痺れが強く出て動かないくらいの苦しさがあった。

だから読書も難しい。キーボードはなんとか使えたのだが、腕が痛いので休み休み。目は充血し口の中が腫れて出血もあった。 なんとか耳は大丈夫なので音楽は結構聴いていた。

純セレブスピーカーでいい音が聴けることは幸甚。CDやネット音源も今までとは異なる良好な音質で聴ける。

先日、指揮者アンタル・ドラティの名録音集10枚ボックスが出た。米マーキュリー音源と思われる。 私もマーキュリーの録音は好きな音の方向。ミネアポリス交響楽団を振ったストラヴィンスキー春の祭典ペトルーシュカはよく聴いていたので、購入。

アンタル・ドラティ 名演奏集 CD タワレコヤフーショッピング

・構成数 | 10
・収録曲 | 【曲目】
Disc. 1
チャイコフスキー:祝典序曲「1812年」、イタリア奇想曲
ロッシーニ:歌劇「泥棒かささぎ」序曲
アルベニス(アルボス編):組曲「イベリア」
ファリャ:歌劇「はかなき人生」より間奏曲と舞曲
ミネアポリス交響楽団
1954年、1957年録音

ヴェルディ:歌劇「運命の力」序曲
ロンドン交響楽団
1960年録音

Disc. 2
ムソルグスキー(ラヴェル編):組曲展覧会の絵
ムソルグスキー:歌劇「ホヴァンシチナ」より前奏曲ペルシャの女奴隷の踊り
ミネアポリス交響楽団
1959年録音

リムスキー=コルサコフ:ロシアの復活祭、スペイン奇想曲
ロンドン交響楽団
1959年録音

Disc. 3
ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第3番
バイロン・ジャニス(pf)ロンドン交響楽団
1961年録音

バルトーク:ヴァイオリン協奏曲第2番
ユーディ・メニューイン(Vln)ミネアポリス交響楽団
1957年録音

Disc. 4
R.シュトラウス(ドラティ編):「ばらの騎士組曲
交響詩ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら
交響詩ドン・ファン
交響詩死と変容
ミネアポリス交響楽団
1955年、1958年録音

Disc. 5
リスト:ピアノ協奏曲第1番
アルトゥール・ルービンシュタイン(pf)ダラス交響楽団
1947年録音

ドヴォルザーク:ヴァイオリン協奏曲Op.53、
スケルツォ・カプリチオーソOp.66
ナタン・ミルシテイン(Vln)ミネアポリス交響楽団
1951年録音

スメタナ:歌劇「売られた花嫁」より序曲、ポルカ、フリアント、道化師の踊り
ミネアポリス交響楽団
1958年録音

Disc. 6
ワーグナー:歌劇「さまよえるオランダ人」序曲
コヴェント・ガーデン王立歌劇場管弦楽団
1961年録音

ワーグナー:歌劇「ローエングリン」より第3幕への前奏曲
歌劇「タンホイザー」より序曲、ヴェヌスベルクの音楽
歌劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー」より第1幕への前奏曲
楽劇「パルジファル」より聖金曜日の音楽
ロンドン交響楽団
1959年、1960年録音

楽劇「トリスタンとイゾルデ」より第1幕への前奏曲
ミュンヘンフィルハーモニー管弦楽団
1959年ライヴ録音

楽劇「トリスタンとイゾルデ」より愛の死
ロンドン交響楽団
1959年録音

Disc. 7
ガーシュウィン:パリのアメリカ人
コープランド:バレエ音楽「ロデオ」
ガンサー・シュラー(1925-2015):パウル・クレーの主題による7つの習作
ブロッホ:シンフォニア・プレーヴェ
ミネアポリス交響楽団
1957年、1960年録音

Disc. 8
プロコフィエフ:交響曲第5番、スキタイ組曲組曲「三つのオレンジへの恋」Op.33a
ミネアポリス交響楽団
1957年、1959年録音

Disc. 9
ストラヴィンスキー:バレエ音楽ペトルーシュカ」(1947年版)、バレエ音楽春の祭典
ミネアポリス交響楽団
1959年録音

R.シュトラウス:楽劇「サロメ」より7つのヴェールの踊り
ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団
1962年録音

Disc. 10
チャイコフスキー:バレエ音楽くるみ割り人形」全曲
ミネアポリス交響楽団
1955年録音

ムソルグスキー展覧会の絵リヒャルト・シュトラウスのオケ曲、録音の素晴らしさがよくわかる。

純セレブスピーカー友人の紙器会社よりいただいた和菓子の箱で作った。 ユニットはダイソーのスピーカー使用

【日記】2019年4月4日 風が吹けば身体が痛い

からだじゅうが痛い。

昨日のような強風だと特に痛い。特定の部位ではなくどこもかしこも。

漢方治療を始めて2年弱。治療中の身だ。

それまではいわゆる病院で処方される薬を飲んでいた。

20年近くも飲んでいても結果は出ないので治療法を変えた。

その影響で痛みが出ている。

 

痛いことをずっと言っていても痛みは変わらないので、少し違うことを書く。

 

面白く愉快なことだ。

人生は愉快でありたい。愉しく快い。これを極める。

 

 昨日も夕方まで寝込んでいて、17時過ぎにこのままでは死んでしまう!と思い、とにかく外出した。

もう外は暗くなりかけていた。

一体私はこれからどうするのか。どうなっていくのか。どうしたいのか。

 

もちろん欲求はどれだけでもある。しかし身体が動かない。仕事に行くことすら困難な日が続いている。

時間は日いちにちとなくなる。

道を歩くのも相当に難しい。10分歩いて電柱にもたれかかる。それでようやく地下鉄に乗り込む。

自分がいつも行く書店に向かった。

本当はニーチェの「権力への意志」を読んで買おうと思っていた。

 しかし、ふとした棚のコーナーを目にした。

 

倫理学

 

倫理学という学問はまあ分からなくはない。

しかし勝手なイメージしかない。

なにやら道徳やあるべき論を振りかざす机上の学問という感じ。

本当にわかる倫理学

本当にわかる倫理学

 

上の入門書を開いてみる。すると倫理学は道徳哲学でもあるという。

しかし、

ヘーゲルにとって倫理は道徳とは異なり、個人留まる道徳を超えた、『共同体の学』なのだ。」(本文11ページ)という。

倫理学は個人がどう生きるべきかを問うだけでなく、人間にとって善い社会とは何か、個人と社会の両方を考える必要がある。倫理とは『個人の道徳規範』であり、『共同体の倫理』である。」(同ページ)

倫理学は個人の問題にとどまらない。

たくさんの人が関わる社会性のある善いもの、こうありたい、あるべきというものはどういうものかを考えることと言ってもいいかもしれない。

 

ここで考えた。

人権や表現の自由と言われるものは憲法などの法律(完全義務と言われる守らねばならない絶対的な義務)で保証されている。

しかし法律で保証されていても、では法律で保証していなければ人が人として生きることを認められないのか。それでは住んでいる国によって人間として扱われる人とそうでない人が出てしまう。

これでは非常に困る。

 

ここには努力目標である「不完全義務」としての倫理が必要になる。

これはいわゆる社会においてこういうことをすべきだと言うくらいのもの。たとえ守らなくても罰せられることはない。

 

こうして考えると倫理とは完全義務と不完全義務の両方のバランスと区分が必要なのだと思える。

 

昨今のヘイトスピーチや他者への暴力行為について、この倫理学という手法で冷静にみることは必要だ。

なんにしても相互了承の価値観を求めて行く必要がある。

それなしでは私もあなたも生きることが難しくなるか蹂躙するされることにもなりかねない。

倫理学という古いようで、今必要な考え方。

もう少し倫理学については理解を深めたいと思うが、今日はここで限界。また日を新ためるとしよう。

 

【日記】続・遺言的に 精神的虐待、モラルハラスメントの恐ろしさ 2019年3月28日

はじめに

 

これから書いてあることを受け入れられない人も多いことと思います。

ひょっとして御自分の重い過去の蓋を開ける行為となり、場合によっては辛い記憶を呼び起こすことになるかもしれません。

だから読みたくない、と思ったらそこで無理せず画面を閉じてください。

 

 

虐待・暴力・ハラスメントは無条件にやめよう。

 

私にしてくるな。

 

私はしない。

 

幼少時から成人になってもダメ人間扱いされていると、こういう私のような状態になってしまうのかと思う今日この頃です。

 

私はいま歩くことにも苦痛が伴います。身体に緊張で力が入れる習慣がついていて脱力がしづらく辛い状況です。

家庭でも心を許すことができず、緊張した環境に囲まれて生活してきました。

 

思い起こせば安堵することやゆったりした休日すら過ごせない苦しい子供時代でした。

その苦しさは結婚して子供が成長した今でも続いています。

 

しかしハッキリ言います。

私が弱いのでもなく、無能なのではありません。もちろんダメ人間でもありません。

 

暴力や虐待する人間のほうがダメなのです。

 

いまだに家庭でも学校でも社会でも暴力やハラスメントが横行しています。

しかし、暴力やハラスメントで攻撃してくる相手がその行為に無自覚で無頓着です

かつハラスメントを平然と正当化する人もいます。

こんなことが普通だと多くの人は感情や欲求を殺して生きざるを得ません。

肉体にすら影響が出てきます。

実際私がその例です。

その環境下において死にかけました。

なんとか生きていますが、いま再び死に向かっています。

 

このような苦しみはどこから来るのか。

私にある苦しみの多くは、生まれてから続く、精神的な虐待から来ているのです。

 

精神的な暴力は、肉体的暴力をあからさまに行なうよりも残酷な行為です。

それは善良さを装って相手に罪悪感を抱かせる、いわゆるモラルハラスメントです。

モラルハラスメント(moral harassment

暴力は振るわず、言葉や態度で嫌がらせをし、いじめること。精神的暴力。精神的虐待モラハラ

 

大人になることを強いられた高校時代〜実は親の尻拭いだっただけ

妹と父の喧嘩に仲裁に入った時がありました。私が高校生の頃です。

喧嘩の理由は、妹の友達への父の言動でした

父は妹の友達を不良と断じた上で、友達の人格否定をして交友の断絶を妹に命令したのです。

「自分が怒られるのならまだしも、友達を貶めるのは許せない!」

こう泣き叫んで妹は怒りと悲しみを露わにしました。

この時、家族の危機だと感ました。そこで私が仲裁しました。

父は言いました。

「妹はオレ(父親)のことを聞かないから、じゅんが妹のことを面倒見てやれ。」

その時私は思いました。

「私が妹を支えなければいけない」と。

 

しかし一方でこういう疑問が頭をよぎりました。

 父は親の役割から逃げて、子供の私に責任転嫁しているだけではないのか?

  

親の一方的な感情の押し付けで疲弊する私

肉体的な暴力は身の危険を感じますし、誰でも暴力だとわかります。

一方で精神的な暴力であるモラルハラスメントは表面化しにくいし、日々ジワジワと行われるために被害者も逃げる行動が遅れる。非常に陰湿な暴力です。

 私は父親から「国公立大学へ行け」「エンジニアになれ」と言われ続け育ちました。

それだけでは大した問題はないのですが、ここからが違います。

 

私が高校の時、文系の社会学系の学部に進みたいと思い勉強していました。しかし父はそれについて無関心でした。

それでも私は自分の勉強したい学部を国公立大学で関東や関西の大学のなかで探しました。なんとか進路を決めたのです。

 

ところが受験2ヶ月前。11月に父から言われました。

「金が出せなくなったから自宅から通える範囲にしてくれ。」

あと受験まで2ヶ月。父はそれまで「国公立に行け」の一点張りの中、さらに経済的理由を一方的に言って私の選択を狭めたのです。

 

私がその直前に大阪の公立大学を受験したいと言ったところ、「そんな大学出身者はウチの会社(某大手電機メーカー)にはいない」と言って完全に否定しました。

自分の会社にその大学出身者がいないだけでも認められないのか?と愕然としました。

 

しかしここでいざこざを起こしていても時間を消耗するだけだと思い、やむなく地元の国立大学に進路変更しました。

しかし、準備も足らず、精神的にも追い込まれ睡眠もゆっくり取れなくなり、結局受験は失敗しました。

その時、父はこのように言いました。

全てオマエの勉強の怠慢であり、予備校に金を出して行かせてやるのは親だから、ありがたく思え。

 

しかも予備校に行かないと怠けるから、絶対に行けという一方的な命令です。

受験直前に一方的な都合で進路変更させたのは父です。受験を失敗した原因がそこにあるかもしれないという考えもありません。

 

私は砂を噛むような思いで1年間の浪人生活を過ごしました。既にわたしには自由な進路選択などありませんでした。受かる国公立大学に行くしかなかったのです。

 

それでも私は大学で学びたかったことがありました。できれば研究職に就きたいという希望もありました。

それについても両親に言い続けていました。

しかし彼らの反応は一応に同じです。無関心な態度です。

そして私がいざことを起こそうすると必ず仕掛けてくるのが全否定の言葉です。

「そんなことでは食っていけない」「カスミを食っていくつもりか」

ことごとく子供の欲求を封じます。

 

 

大学卒業前に私は次のようなことを思い出したように両親に言いました。

「オレ、社会学を大学で勉強したかったんだよ」

このあとの父親の言葉が絶望的です。

そんなにやりたかったのなら、なぜハッキリ言わなかったのか?

それだけ考えていたらなんとかしてやったのに。

 

 

絶望的な言葉です。

まず私は進路についての希望を散々言っていました。社会学部のある、できれば私立の大学でと。

関西地方に私の希望に合った大学がありました。私は家庭の経済的問題をそれなりに理解していました。

それでもなんとか学びたかったので、新聞奨学生の制度を使いたいということすら話していました。

しかしその時も詳しい話を聞かずに「そんなことをしては学業をおろそかにしてしまうからダメだ」と父は私の考えを封殺しました。

私が話したのは大学で学ぶために、具体的な方策を私は調べた結果の提案だったのです。

 

後に父は

「オマエがはっきり言わなかった。オレは何も聞いていないのでわからなかった」と平然と言うのです。

あれほど重要なことを話していたのに聞いていないと言う。

しかも話していないことにされ、私に否があると責められるのです。

私が神経をすり減らして進路変更に思い悩ませていたことを、知らなかったと言うのです。

 

そんな無茶苦茶なことが普通。それが私の家庭環境でした。

徐々に私の精神が病に侵され始めました。高校時代は極度の緊張と離人意識、睡眠不足と幻聴に悩まされました。

 おそらく今で言う統合失調症の症状でした。

しかし精神科に行くことが憚られた時代だったので通院することも考えられず、人知れず苦しんでいました。 

 

こんな目にあっていても、私自身の伝え方が悪かったのだと最近まで思っていました。自分が悪いのだと。

しかし、それは全くの間違いだとやっと気付きました。

 

これは完全に親の子供への精神的虐待、モラルハラスメントのです。

 

その後もさらに精神的虐待は続きました。

高校受験を終えた妹に「県下最低の高校しか行けないなんて」と父の言動。

これは子供の人格否定と言わずなんというのでしょうか。

その後、妹は成人して就職してからも門限を設定されました。

結婚するまで自立を許されず、実家での監視下に置かれていたのです。

 

私に対しても卑劣なハラスメントは続きました。

私が結婚して実家を出たすぐのことです。

「銀行から実家に親展の封書が届いたので取りに来い。」

と父から連絡がありました。私は結婚に伴う住所変更届出を忘れていたことを思い出し、急いで取りに行きました。

実家に着きその封書を見たとき驚きました。

既に封が開いていたのです。

 

不審に思い父に尋ねると、「親展だから開封した。銀行口座の残高不足で引き落とし不可の文言を読んだ。」

どういうこと?親展だから開封した?それ他人がやっちゃダメだろ?

私は怒りました。親展は本人がまず開封すべきもの。それを父親がなぜ勝手に開封したのかと。

しかし父はその行為を謝りません。

「親展だったから封を開けた。オマエのことを心配に思っただけ。オマエが残高不足を注意しないからダメなんだ。」

これが父の言葉です。どう考えてもおかしな理屈です。親が心配しているという理由で成人した子供のプライバシーを侵害することが許されるはずがありません。

私ならどこに非があるのでしょうか。

 

まず他人宛ての封書を勝手に開ける行為はマナー違反です

 

子供であろうとも既に大人として自立しているのにもかかわらず、本人のプライベートな封書を覗いた行為に問題があります。

しかし父は私の封書の中身を見てしまったことを私に詫びるどころか、私の落ち度とすり替えてひたすら責めたのです。

もちろん、私は激怒しました。しかし全く父は意に介しません。

のちに父にこのことをあらためて話したところ、

「記憶にない、そんなことするはずがない」の一点張りでした。

これも衝撃的です。

都合の悪いことは全て記憶から消し、都合のいい話にすり替える。

こんな父はサイコパスなのかもしれません。あるいは発達障害なのか。

 

あまりに細かく書きすぎて私も嫌な気持ちになりましたが、これでもまだ序の口です。

 

もしあなたがこの文章を読んで、こんなことは日常茶飯事で大したことない、と思うのであれば注意してください。

それはあなたがハラスメントの連鎖に取り込まれている可能性が高いです。ご自分も他人にハラスメントを仕掛けている恐れがあります。

 

 私は一連の両親の言動、とりわけ父親の病気ではないかと思える行為に悩み苦しんでいます。ここには書いてませんが、何度も死を考えました。

 

私は自らの精神的健康を確保するために、いまは両親との一切の連絡を絶っています。

 

よくよく考えると

彼ら両親は自分の子供のことなど実はどうでも良かったのです。

親が子供を心配することが当然であり、そのためならば子供の感情などを見なくても構わない。

単に自分の都合のいい時だけ一方的な親の立場を振りかざしていただけではないだろうか。

 

親の問題言動を指摘しても認められない

そもそも父親の言動は大きな矛盾があります。

子供を未熟なものとして支配し、考えや欲求を封殺します。その一方で、都合が悪くなると全ての責任を子供に丸投げするのです。

本来子供が未熟ならば、親はその未熟さをカバーし導く責任があるはずです。ところがその未熟さをカバーするどころか、子供から親の矛盾や未熟さを指摘されると全く理解しないか逆ギレするだけです。

その時々で変わる親の感情を一方的に押し付けて、それを受け入れない子供をひたすら攻撃します。

これが精神的暴力と言わずなんと言うのでしょうか。

 

 ハラスメント行為が連鎖する仕組みはこちらの本に詳しい。ご参考までに。

ハラスメントは連鎖する 「しつけ」「教育」という呪縛 (光文社新書)

ハラスメントは連鎖する 「しつけ」「教育」という呪縛 (光文社新書)

 

 

こうしてこの本を読み、ハラスメント行為を自分の体験を踏まえて綴るとはっきりします。

ハラスメントは重大な暴力であり犯罪に等しいものだということです。

ハラスメントをしている私の親はいまだに反省することはないと思っています。

私が必死に言っても絶望的にわからないのです。反省もない。

おそらく私が今死んだとしても私が弱くて悪く、親自身には何の落ち度もないと思い続けるでしょう。

 

私は完全に絶望しています。

私は父親を単に幼稚で未熟なまま大人になった人と断定せざるを得ません。

 

精神的虐待・モラルハラスメントは人間の人格や存在の否定そのものであると私は考えます。

ゆえに決して見過ごされてはならないのです。

 

人間として表現を認められず、考えも尊重されなかったなら、

それは精神の死であり、魂の殺人である。

 

しかし残念ながら、両親はその深刻さを理解できません。

それどころか互いに子を無視して否定しています。

 

こんなことでは本当にみんな死んでしまいます。むしろ死にたくなって当然です。

 

私は今死の淵に立っています。

この状況になっても感じることは

どんな理由があっても、子供の人格否定をしてはいけない。子供だって人間ですよ。親のおもちゃではない。

 

そんなのもう自分だけで十分です。

懲り懲りです。

やめなさい。

 

 

ここで私はいちど死にます。

 

そして私は本来の自分として再生していこうと思います。

もう他人のために自分を殺すこともないでしょう。

 

しかし残念なことに、もう私の生きる時間はあまりないのです。

一昨日書きましたが、それからも刻一刻と死期に近づいています。

 

ここまでの考えに至ったのに。悔しい。

 

そこでお願いがあります。

この文章を読んで共感した人は、

このハラスメントをしない、させないことをネットでもリアルでも良いのでどこかで表明してくださいませんか?

 

そういう人が1人でもいたら私の経験も決して無駄ではなかったと思います。

 

私もまだ生きていくことができれば、共に行動していきたいと思います。

 

どうかよろしくお願いします。

 

追記(2020/08/28)

昨年、父より遺言が来ました。

内容は母親に数千万円の遺産の全てを相続、その手続きは息子の私にせよ、とのことでした。

有給休暇もない私に全部手続きさせて、相続額ゼロですか。

もちろん金の問題ではなく、これまでの彼の人生観を物語るものです。それが私には腹立たしいし悲しい。

同居してきた期間は20年。仕事をせずに年金暮らしで彼らの貯金だけでも数千万円、一方で病気になった息子家族は今も経済的困難を抱えてます。同じ家に住んでこの差です。

 

どれだけ毒親なのでしょうか。これが私のうちだけなら良いのですが、実は日本ではこの類の話は珍しくないようです。

 

どこが家族は素晴らしい、温かいというのでしょうか。私にはお花畑としか思えません。