【日記】2018年10月27日 ハラスメントの体験談
▶︎ここ1週間ほど非常な身体の痛みが断続的に続き、人生史上最大の苦痛かもしれない状態にある。
症状をいちいち書くとキリがないが、治療側の話を聞くと季節と今年の猛暑の余波があるようだ。とはいえ流石に神経が擦り切れてくる。なんとか切り抜けられそうな気がしてきたが、いい加減このような苦しみを終わらせたいと思う。もちろん治癒・寛解という形で。
体調悪いのに、読んでいる本や読みたい本はハードなものが多いので、なんだかなぁ。
最近ハラスメントについて再び読んでいる。上の本はセクシャルハラスメントの本。
セクハラは女性の問題ではなく、まさに男性側の問題だ。ようやく最近認知されてきたが、この本で見えてきたのは女性への男の羞悪で性的な視線だ。
私も男性なので、女性への見方が邪な部分があると自認せざるをえないしそれは胸糞悪い。私はセクハラはまだしていない(と思う)し、今後もしたくない。
それに、まだ日本は男性社会そのものだと思う。その自認が社会にもっと出てきてこないと変わらないのかとも思う。
今日、ぼんやり思ったのだが、ハラスメントは人権の問題そのものじゃないか、ということだ。
▶︎私も過去に数回パワーハラスメントを受けている。
しかし、訴えが通ったのは1回のみ。それも今働いている会社の相談窓口が大きく開設された直後。大変スピーディーに対応して来れたので助かった。
▶︎それ以前に働いていた職場(障害者就労支援事業所)で受けたハラスメントが最もひどかった。5日間病気で動けず休んだことがあった。日給月給契約で働いていたので、その欠勤分は給料は引かれることはもちろん仕方ないと思っていた。
給料日に銀行に行ったら、どう考えても欠勤分以上に給料が差っ引かれている。おかしいと思ったので、そのすぐに職場に確認した。
その答えに驚いた。
上長「あなたは欠勤が続いたので、月給15万円を時給800円にしました」
私「は?おかしいでしょう?契約違反ではないですか!」
上長「あなたは権利ばかり主張している!」
これは完全に契約違反だと思い、市の管轄する支援センターのソーシャルワーカーに相談した。(そもそも給料日に私が尋ねるまで、何も話がないこと自体がおかしい)
同時に、社会福祉協議会にこれは差別ではないか?と相談に行ったらそれは「労働基準監督署に行って来れ」と言われ、労基署に電話して相談した。
労基署員に「それでは労基法違反にはならない」と言われた。契約違反ではないか?と聞き返したが、どうも当を得ない言葉しかなかった。
典型的なたらい回しである。
役所からの言葉は事なかれ、の対応である。
結局月給に次月から戻ったが、ソーシャルワーカーは特段の問題とはせず、私には転職をすすめた。(今考えると、私の転職の前に、ワーカーは事業所に改善をするようになんらかの形で促すべきだろう)
この事業所からのハラスメントは転職活動の最中も行われた。
上長「社長がもう限界だから月給制から時給制にするという話があるから考えておくように」
「あなたは相談員の〇〇さんより給料が多いんですよ」
何が限界なのか?月給にすると切り出したのは、他ならぬ社長だ。そしてなぜ時給制に減給されるのか、合理的な説明がない。
それに相談員の給料が私より高くても低くてもそれは私が決めたことではないから私に対していうことではない。
これらの上長と社長で話を擦り合わせてくれればいいのであって、私にその判断を迫るのはおかしいし、明らかに障害者差別でありハラスメントである。障害者就労支援事業所が障害者にハラスメントを行なっているというこの事実はなんと捉えたらいいのか。
相談したソーシャルワーカーからも具体的なフォローはなく、この私は事業所をしばらくして離職した。この会社が福祉事業を標榜していると思うと、全くの偽善であり笑止千万な話である。こんな会社は無くなった方が良い、そう思う。しかし、私が当時声をあげても全く届かなかったのも事実である。
この件で各公的機関は全く機能していないことを見て絶望した。これが福祉の実態なのか。
これでは当事者への配慮のない事業者が蔓延するのは当然のことだ、
▶︎ハラスメントは支配力を持つ人間が行う。私の場は給料と障害を持つという部分で巧妙にハラスメントを受けた。社会保障の関係を含めて、人権意識がなさすぎる。
しかし、私自身も生存する権利、人間として生きる権利というものを最近になってわかるようになった。これは当事者になってわかることも大切だが、家庭教育や学校教育で子供のうちから育まないとダメだと思う。
しかし。絶望的なのは家庭や学校には人権どころか、子供には人権意識を教える前にしつけをする、罰する、甘やかさない、という考えが蔓延しているということだ。
日本の絶望的な現状をなんとかしたいと思い、私もなんとか生きている。これは家族のと今の職場の上長の支えがあればこそだ。
誰も他人の力なくしては生きて行けない。一人で生きていけると思う人は傲慢になりハラスメントを行う側になりうる。
どんな人でも生きる権利はあるし、互いに助け合うべきなのだ。しかし、「お互いに」「助け合う」意識が希薄なのが今の日本社会の醜い一面であると思う。
と感情的になるのもほどほどにして、齋藤孝さんの本を読んだ。これから私もまだまだ学ぶことが多い。
とやっと書き上げた今日の内容は大変重い話になった。しかしこの話はわずか5年前の話にすぎない。人権問題、ハラスメントはまだこの世の中にたくさんある。
【日記】2018年10月17日 朝 体が痛い 新書再考
▶︎10月は毎年古傷が痛むようだ。うつ症状が出たり、体のあちこちが痛んだり、思うようにならなくて結構苦しむ。毎年のことだが…
▶︎そんなところで読書ネタである。
人生を変える新書『はじめての新書』: わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいる
dainさんのブログ。
私はこのブログと、くるぶしさんの
を愛読している。読書の幅を広げるのは誰も読んでいない本や読んでいる人の視点で語る言葉だ。
さて今回の岩波書店の「図書」増刊号のテーマが「はじめての新書」だ。
正直、新書は玉石混淆だと思っている。しかし、識者のすすめる新書ならば「石」の新書はおそらく少ないだろう。
今回の特集記事は岩波新書に限らず、新書ならなんでも、という内容である。選者は岩波に気を使っているかもしれないからか、岩波は多め。
私は子供の頃から読む新書は講談社現代新書が多かったので、むしろ岩波新書、岩波ジュニア新書、中公新書の紹介はありがたいと思った。
特に中公新書は政治物歴史物には昔からこだわりがあり、それを表すかのように中公新書をさほど読んでいない私は若干のアレルギーを自覚する羽目になる。私の印象では今でも中公新書は硬派な新書である。
▶︎改めて感じたこと。古典的な新書もあり、これは読んだ方がいいな、というものは可能な限り読んでみようと思っている。入門書・解説書としても新書の役割は大きい。
【日記】2018年10月14日 秋深まる。
▶︎ここのところ、ネットを介した読書会に参加している。お誘いいただいたものもあるが、多くは私から参加希望しているものである。以前はリアル読書会が一番だと思っていたが、スカイプやFacebook、ZOOMを介しても十分意見の交流や共有はできることが確認できている。今のところ大きなトラブルもないので、ルールの相互承認さえできれば、これからネット上での読書会はさらに可能性として広がるだろう。
▶︎久々に大型書店で本を購入。大型書店へ行くと10冊単位で本を購入する。その分飲食の贅沢は出来ない。
食べ過ぎはあっても本の読みすぎで健康を害することはない。ただし食べ物も書物も偏りがない方が栄養状態はよくなる。しかしバランスを考得ながら読書するのは結構難しいぞ。
宗教生活の基本形態 上: オーストラリアにおけるトーテム体系 (ちくま学芸文庫)
- 作者: エミールデュルケーム,´Emile Durkheim,山崎亮
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
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宗教生活の基本形態 下: オーストラリアにおけるトーテム体系 (ちくま学芸文庫)
- 作者: エミールデュルケーム,´Emile Durkheim,山崎亮
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 2014/09/10
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▶︎ 上の文庫。古典書だが、文庫にあるまじき(?)高額。とは言え1冊1500円だが。子供の頃の新潮文庫は180円や250円で買っていた、その感覚で比べてはいけないね。
こんな本も。最近の女性へのセクハラ問題を正面切って考えるにはこのくらいの本は読んだ方がいいと思う。
▶︎他いくつか新書を購入。
購入は控えているジャンルは小説。元から文学は好きなジャンルだが、エンタメ小説を読むなら、脳みそを鍛えられる硬い内容の本が良いと最近は感じている。
おかげで最近、小説の読み方を忘れかけてきたような気がする。ストーリーを追うってどうやるんだ?
▶︎「そんな難しそうな本を読んで理解できるんですか?」と聞かれることがある。
違う、わからないことが書いてあるから読むんだって!内容が理解できる本は読むだけ無駄なんだよ。
▶︎最近やっとわかってきたことがある。「自分の理解できる本を読むことが読書だ」と思うひとも多いということだ。だからそういう質問をされるのか。私もまだ理解の及ばないところがある。大変勉強になる気づきであった。
【読書】死ぬまで読了しない読書が一番好きだ。
2日前に書いた文書でやや書き足らなかった部分をもう少し書いてみる。
昨年1700冊読んで何を得たか、という記事。
今日書きたいのは、
- なぜそんなにたくさんの本を読むのか?
- 本の内容を理解しているのか?
である。
まず、
なぜそんなにたくさんの本を読むのか?
まず、私にとっては全然「たくさん」じゃない。全く少ない。少なすぎる。
古典文学に限っても、源氏物語を原文で全文読んでいない。トルストイ、プルーストやなども未読の山だ。
原文で読まなくとも現代語訳日本語訳で読むつもりはあるが、他の文学作品もまだまだ読みたりない。
哲学書、歴史書、宗教書、社会科学書、自然科学書も未読だらけ。
たとえば、モンテーニュのエセー、道元の正法眼蔵、アーレントの全体主義の起原、サルトルの存在と無、ギボンのローマ帝国衰亡史…
これら世界で読まれている本を私は未読なのである。
なぜ、そこまで読む必要があるのか?
それは私が当然読んでおくのが当然だと思っているからである(今の段階ではこう書くしかない)。
一例だが、私は合唱音楽を音楽活動としてやっている。
私のやっている合唱というものは、根本的基盤にあるのはキリスト教教会音楽であるから、当然聖書は読んでいて当然の感覚でいる。
教会の成り立ち、カトリック・プロテスタントの意味それ以外の宗派や教派への理解、さらに基になったユダヤ教にも突っ込んでいく。現代社会と音楽を考えるなら、芸術と資本主義というトピックも立つ。
さらに突っ込むとキリスト教の理解という上っ面のものではなく、私の心にはキリスト教でいう「信仰」というのはあるのだろうか?日本人のいう「神」と”God”は違うのではないか?
音楽ひとつにおいても様々な理解を促してくれるものである。音楽についてもそれだけの問いが立つ。
もちろん読書しただけでは音楽をすることにはならないが、書物から得られる世界観や知識は必要だ。
例えは音楽だったが、音楽ですらこの大きな世界の中での一存在。
この世界は人類が形成してきた「智」で出来上がっているならば、1人で全て知ろうなんておこがましいってもんかもしれない。しかし、そうであっても私は知りたい。
まあ、そこまで鯱張らずに言っても
「言葉は人や社会を動かす」だ。
私はトピックしか読んでいないが、池上彰氏で以下の著書がある。
『アンネの日記』
『聖書』
『コーラン』
『資本論』
『沈黙の春』
『種の起源』
『雇用 、利子および貨幣の一般理論』
『資本主義と自由』
以上が池上氏の言う「世界を変えた」本である。
私はこの10冊の中で8冊を読んだが、確かにこれらはのちの人たちの心を変え、行動を変えた「言葉」が詰まった本だと言って良いと思う。
これらの本は難しいから読んでいないと言う人でも、今いる社会に様々な影響していることを否定できないと思う。
これらの本がなければ、
キリスト教がなければ良くも悪くも資本主義経済すら発生しなかったかもしれない。
ユダヤ人虐殺行為が明るみに出なかったかもしれない。
環境汚染に対するエコロジーの思想もないかもしれない。
人間は進化成長するという発想もない。
世の中でお金をどう回していけば良いのかという考えすらないかもしれない。
今、当然であると思われている価値観の中にこれらの本の「智」が間違いなく動いている。
読書をすればするほど、これには実感せざるを得ない。
言葉には良くも悪くもパワーがある。言葉の使い方で自分自身へも他人へも何らかの影響をもたらすことは明らかである。
これらの人々を変えた言葉が詰まった本を私が読まない理由はない。
以上が、現状で目一杯、私が書ける「たくさんの本を読む」理由である。
次に
本の内容を理解しているのか?
これは何を以って理解とするのか、読了とするのか?と同義であるとする。
答えは
「理解できるところもあるし、全く理解できないところもある。全部読んでも全く理解できない本もある。」以上
「本の内容を理解しているのか?」と言う問いに対し、逆に私は問いを立てたい。
- 内容を理解したというのはどの時点で言えばいいのか?
- 100%理解したと言えるまでは読んだとは言えないのか?
私は本を読むということについて、こだわりは捨てて行ったほうが、晦渋・複雑な本でも自由に楽に読めますよ、と言っておきたい。
私は本の内容を誰かに伝えねばならないとも思わないし、読書記録を書くべきとも思わないし、100%理解せねばならないとも思わない。
とにかく、全てパーフェクトな世界はどこにもないというのが現実世界だという認識である。
私はたくさんの本を読んできたのだから「他の人より優れている」などと鼻くそほども思わない。
そんな上から目線の考えが芽生えたら、完全なる「老害」である。読書家などと口が裂けても言いたくない。
本を読むとき、
- 最初から一字一句理解しながら読まねばならない。
- 読んだら感想を書かねばならない
- 読んだ内容をまとめ文章を書かねばならない
と、どこで言われのか?
学校じゃないか。
これらの学校で教えられた読書の方法3点には以下の暗黙の前提がある。
- 最初から最後まで読まないと本の内容はわからない(初等教育では音読は一定の効果があるかもしれないが、いつまでも同じ読み方しかしないのは成長を阻む恐れがあることは完全に無視されている)
- 読んだら絶対に理解できる(はずの)題材しか用意しない(理解できない本への向き合い方を無視している)
- 読んだ内容を表現できなければダメ(点数にできなければ学校は評価しようがないので無理にでも書けという嫌がらせ)
これらの暗黙の前提は現実の世界では全てひっくり返る。
- 一字一句読んでいたら一生かかっても限られた知識しか触れられない
- 読んでも絶対に理解できない本(世界観、文化)がある
- 読んだ内容をすぐ表現できなくても、心のどこかに残っていれば、いつかどこかで繋がることもある
- 言葉には現せないものやことはたくさんある
これが現実でしょ。
日本の学校教育では、必ず結果を出すという前提で行われている。
それは日本の学校教育内では動かしがたい現実かもしれない。(戦後教育の狙いをここで問うことはあえて避ける)
しかし、現実社会に出てみれば、全てが不確実で複雑、不条理に満ちて、暴力と権力が横溢しているのではないか。
さらにそこには正解はない。正義すら時代や国で異なる。様々な価値観や視野視座視点を持つと言う認識が必要。
学校で習った通りに勉強ができて高偏差値の大学へ行ったとしても、逆にその刷り込まれた価値観に思考が引っ張られてしまうことも多い。
私がいうまでもなく、それは日本の企業の現状を見ればわかることも多いと思う。
そんな社会を前に学校教育(ここでは読書という点においてのみにする)が何の力になるのであろうか。
ここは私が最も強く問いたいことである!
そこまで突き詰めなくても、
本を読むことさえ、学校教育からの刷り込みで自由にできないなんて、
もったいない!もったいない!もったいない!
読書なんてもっと自由でいいじゃん!
難しい本は読むのやめておこう…はもったいない!
読んでみないとわからない。
読んでみてもわからないかもしれない。でも読んで何かをつかもうとチャレンジしていけばいいじゃないか、と思う。
私も昨年にマルクスの「資本論」、一昨年にアダム・スミスの「国富論」を読んだ。
読んで意味あったの?わかったの?と問われれば、
私は意味はあったと思う。
でも、それは私にとって価値があった経験を得たというだけで他人が同じようになるという保証はない。当たり前だよね。
わかったのか?
もちろん、わからない部分は多かった。でもなるほど、と思うところは数多く出てきた。
とりあえず、それでいいと私は思う。だって何度も読みかえせばいいのだから。
どんなことでもそうだけれど、人は他人の立場に100%立つことはできない。当たり前だ。
それであっても、相手の気持ちや事情を慮ってお互いに助け合うのが社会でのコミュニケーションの望ましいあり方だと考える。
読書でも著者の視点に立って読む姿勢を持つことが大切だと思う。
わからないことがあって当然。それでも繰り返し読むことが私は時と場所を超えた著者とのコミュニケーションだと思う。
これが私の今の心境である。
かしこまって書くならば、
読書で自由を得ることは、社会で自由に生きることを得る「可能性」を掴むことでもあると思う。
もちろん、「絶対大丈夫」「信じていると必ず報われる」という世界は現実ではない。
そういう世界はファンタジーの世界はもちろんあって良いが、それは現実とは異なるものという理解する。(大の大人もこういうファンタジーの世界に生きている人が相当多いので若い人は注意していたほうがいい)
ともあれ、
正解もない、不確実なのが世の中の常なので、
「読書していれば大丈夫」
でもないし
「読書しない奴はダメだ」
でもない。
不確実で、正解がなければ、読書の仕方ですら自分が決めれば良いのだ。
とりあえず、読書に関して言えば上に書いた通り、学校で刷り込まれた方法では明らかに私は不自由だと思っているので、
本を読んでもどこまでもわからないことがある、という前提で、
死ぬまで読み終わらない読書が好きだ。
なんども読んでなんども考え行動することが好きだ。
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この私にとって、わからないことが世界を作り上げている事実。これは動かしがたい。
と書いてきて、何度も読み返す本に出会う機会が必要なのだとつくづく思う。
現状ではかなりテキトーに書いた本も多いので、まずは古典書を読み潰していくのが先決だと私は思っている。
と書いてとりあえず筆を置きたい。
【読書】年間1700冊以上読書して何を得たのか?
読書メーターで昨年読んだ本は以下。内容をリンクさせると膨大になるので、事実を挙げておく。
2017年の読書メーター
読んだ本の数:1708
読んだページ数:481548
ナイス数:24253
私の読書のスタンスは、10代の頃から実はあまり変わっていない。
本を読むということは図鑑や学研マンガを読むことから始まり、年を経ることに幅広く深くなっている。正常進化だ。
で、結果1年間で何を得たのか?
本を読んでどんなに感動しても、
行動しなければ自己変革もないし、
社会をよりよく変えることなど絶対に出来ない
という身も蓋もない事実だったのである。
私が20代の頃、もっとも仕事と趣味に無茶苦茶し過ぎたことで、体と精神にダメージを得た。おかげで仕事を1年弱休職せざるをえなくなり、結果としては退職することになった。
この時に相当苛烈な体験をして、死すらも考える日もあったことを告白せねばなるまい。
でも現時点でこうして生きている。十分にサバイバーである。
さて、20代から30代の読書は成果即効性を求める読書であったことを正直に書いておく。自己啓発系の本やプログラムにハマってしまい、知らないうちにオカルト的な考えを持っていたのだ。
所謂「願えば叶う」「引き寄せの法則」のようなものである。
確かにこれらの言葉は決して非合理的ではない。しかし、本質を私は見誤っていたのである。
願っていても、自分が行動しなければ、現実は変わらない。
同じ考えの物やことに引き寄せられても、お金が寄ってくるわけではない。
今思えば当たり前すぎる事実なのだ(笑)。
新卒で就職した職場を10年で事実上、病気退職した時、全く生きる軸を見失っていた。
それを埋め合わせるように、所謂「感謝の言葉を1000回毎日唱えなさい」「ついてるを言い続けなさい」とか書いてある本を正直に実践した。
今考えると、あんなに必死になって毎日「ありがとう、ありがとう、ありがとう…」と言い続けていたのか、まさに「溺れる者は藁をも摑む」状態であった。
10年くらい前に流行ったカツマーやライフハック本もかなり一生懸命読んで実践した。やたら資格や収入に繋がる勉強をするという物だったが、そのノウハウにも違和感を感じていた。(この当時勝間さんはパナソニックのレッツノートをスタバで使って仕事をするノマドスタイルを提唱していて、リアルに仕事帰りにスタバに寄るとまさにレッツノートを使っている方をよくお見かけしたが…。)
それらの自己啓発本オカルト本はとうの昔にブックオフに売却して今手元にはない。
最近、当時読んでいた本をブックオフなんかで読み返してみた。
「単なる流行本で、数年でクズと化す」という事実を確認してしまった。
つくづく、読書することは必要ではあるけれど、読書しているからといって全知全能になれるわけでもないのに、ついそう思ってしまう陥穽があるのも現実なのだ。
どれだけ本を読んでも人は世界を知り得ることはできない。読めば読むほど、多様で複雑な世界を生きている自分のちっぽけさを知るだけである(でもそのちっぽけさが人間の価値なのだとも思う)
なのに、私は数年で陳腐化するような本を、20代から30代にかけて必死で毎日読み続けていたわけだ。
こんなんで社会的構造や現実を知り、それを応用実践できるはずがない。
今月も今の時点で200冊近く読んでいるが、新刊本は極力読んでいない。
申し訳ないが新作小説を読むことも意識的に外している。
自己啓発本もほとんど読まない。というか、それ系の本は基本的に過去の古典本の焼き直しなので、立ち読みで終わってしまう。
有限な自分の時間を陳腐なストーリーで満たしていたら命がいくつあってもたりない。(と言いつつ、たまにラノベを読んで、やっちまった!と思うこともあるが)
現在は基本的に古典書を極力読んでいる。古典でもまだまだ全然読みたりない。おそらく古典を読み、考え、実践するだけで、私の生涯は終わるのではないかと思う。
少なくとも読書に関しては、古典9割で残り1割は目利きで良書をピンポイントで狙って、豊かな人生を送ることに注力しようと思う。
そして、その豊かさとは何か?
それは自分自身の本音に向き合うほかない。
それは正解はない。
世界は複雑だから。
単純な世界に生きようと思ったらファンタジーに行け。
でもファンタジーだけで生き続けることは楽しいのだろうか???